奈良懸護國神社の碑を読む

概要

奈良懸護國神社には、明治維新以来国難に殉じた奈良県ゆかりの英霊(軍人、軍属、従軍看護婦)29,245余柱が祀られています。
また、満蒙開拓団青少年義勇軍、県下消防団員の殉職者も祀られています。
境内の 高円の社たかまどのもりには、多種、多数の椿が植栽されています。
車で15分程の所に、春日大社、東大寺、奈良公園があります。

奈良懸護國神社

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目次

  1. 主な慰霊・顕彰碑
  2. 大東亜戦争に関する碑
  3. 奈良県出身陸海軍戦歿者
  4. 歩兵第一五三聯隊
  5. 奈良県送出 満洲開拓犠牲者
  6. 大東亜戦争終結六十周年
  7. その他の碑など
  8. 消防殉職者
  9. 東市村戦没者
  10. 勅諭御下賜五十年記念、山邊誠一
  11. 奈良県郷土部隊戦歴
  12. 近くの寺社、観光地
  13. 書籍紹介
  14. 参考

大東亜戦争に関する碑

幾多の危機に国家のため挺身
奈良県出身陸海軍戦歿者

奈良県出身陸海軍戦歿者

碑文

戦没者慰霊塔
碑文
明治建軍以来日本民族の発展と国家の隆盛を祈念しつつ日夜軍務に精進し生を捨て義をとる崇高なる犠牲的精神また旺盛なる責任観念と不撓不屈の精神力を陶冶し日清日露の両戦役をはじめ幾多の危機に国家のため挺身してその難に当たる
ことに第二次世界大戦においては世界列強の包囲に抗し南方諸民族を解放独立せしめんと 炎熱身を灼く大陸の山野に 酷寒肌をも凍らす北辺に 怒涛うず巻く南海に 各地で奮戦日本精神に生き悠久の大義に殉ぜんと後に続くを信じつつ御国のため雄々しく散華せらる
この至誠至純の精神こそ何よりも尊いものであり今日この日本の平和と繁栄をもたらしたのはその血潮の結晶の たまものであり千載青史に銘記すべきである
ここに建軍以来の奈良県出身陸海軍戦歿者二万九千百十柱の御霊を顕彰するとともにその遺勲を末永く後世に伝えんがため県内外有志一万三千余名のご芳志と八百余名の建設委員の尽力によりこの慰霊塔を建立す
願わくは在天の諸英霊安らかにこの高円の丘に鎮まり給いて永久に世界平和と国家の隆盛にご加護あらんことを
昭和五十二年十月吉日
奈良県出身陸海軍戦歿者合同慰霊塔 建設委員会

ビルマ戦場において尊い生命を捧げられた
歩兵第一五三聯隊

歩兵第一五三聯隊

碑文

ビルマの塔
昭和五十六年三月
歩兵第一五三聯隊有志並に篤志家 建之
碑文
第二次世界大戦のビルマ戦場において祖国の為に尊い生命を捧げられた兵士の御霊をまつる ゆかりの塔
芳? 敬書
ビルマの石
ここに埋められた小石は第2次世界大戦末期に歩兵153連隊の将兵を始め幾多の方々が戦没された中部ビルマのイラワジ河畔より慰霊団が万感の思いで持ち帰ったものです。

どうぞ還って永眠されよ
奈良県送出 満洲開拓犠牲者

奈良県送出 満洲開拓犠牲者

碑文

拓魂
奈良県知事 奥田良三 謹書
昭和四十七年十一月吉日建立 奈良県拓友会
この碑は 奈良県送出満洲開拓犠牲者の偉業を讃えその霊を慰めるため広く県民の参加を得て建てたのである 満洲事変後国策の根幹として満洲政策の重要な基盤をなしたのが満洲開拓で 本県からも満洲開拓青少年義勇軍に 開拓団に 報国農場隊に 約三千数百名が渡満した 右手に鍬左手に銃度々の匪襲を退けて開拓に国境警備に或は軍の協力部隊として奉公に専念した 然し終戦は我々開拓者には特に残酷の極みを体験させた 無一物の逃避行 衣食なく医薬なく次々に斃れた 凍死した 隊員は自決した 捕虜で死んだ その数千二百名 開拓関係の諸問題は未解決のまま今尚迎えられる事なく酷寒の異郷に居る 我々も肉親も忘れることは出来ない止むに止まれぬ同志は 兄等を迎える安らぎの場として最良の地を選んだ どうぞ還って永眠されよ 我々は衷心より感謝を捧げその功を永久に残したい 真の平和の守護神となられんことを
奈良県拓友会

英霊靖かれ
大東亜戦争終結六十周年

大東亜戦争終結六十周年

碑文

大東亜戦争終結六十周年 八月十五日 追悼式斎行 献詠三首
あさらふ 高円のもりの 御社みやしろ
われらつどひぬ たままつりせむと
高円の もり社頭やしろに ぬかづけば
英霊みたま反響とよもす 蝉時雨せみしぐれかも
國護る 防人さきもりきし 丈夫ますらを
英霊みたまやすかれ 永久とはまつらむ
斎藤 基樹
平成十九年八月十五日建立

その他の碑など

消防殉職者

消防殉職者

碑文

消防殉職之碑
奈良県消防協会

東市村戦没者

東市村戦没者

碑文

忠魂碑
陸軍大将 一戸兵衛 書
大正十二年十二月建之
帝国在郷軍人會 東市村分會

勅諭御下賜五十年記念、山邊誠一

勅諭御下賜五十年記念

碑文

勅諭御下賜五十年記念
聖訓
軍人ハ忠節を盡すを本分とすへし
軍人ハ禮儀を正くすへし
軍人ハ武勇を尚ふへし
軍人ハ信義を重んすへし
軍人ハ質素を旨とすへし
帝国在郷軍人會會長 陸軍大将 鈴木荘六 謹書
山邊誠一君頌徳辞
山邊誠一君ハ大正九年十一月帝國在郷軍人會松山町分會長ニ推サレ 十四年同宇陀群聯合分會長 同奈良支部評議員ト為リ 有志ヲ歴訪シテ基本金各壹仟餘圓ヲ集ム 十五年歩兵中尉ニ 昭和三年同第十六師管聯合支部評議員從七位ニ 六年群聯合分會任満チ同顧問ニ尋テ松山青年訓練所後援會長ニ推サル 君性度寛厚奉公ノ気象ニ富ミ 奮テ事業ヲ興シ進テ公益ヲ廣メ軍事的知能ヲ啓發シ會員ノ親睦會勢ノ進展ヲ図リ 又奉公貯金組合ヲ創設シ十有餘年至誠一貫 総裁 閑院宮殿下 奈良懸知事ヨリ美擧ヲ彰表セラル 茲ニ 勅諭御下賜五十周年ニ際シ 町分會々員謀リ記念碑ヲ建テ 拳々 聖旨ヲ欽仰ス 因テ碑陰ニ君カ碩徳ヲ勒シ人ヲシテ頼リ法ル所有ラシム
昭和七年五月
帝國在郷軍人會松山長分會 建之
平成十四年三月十日建立
社団法人 奈良県至誠会

奈良県郷土部隊戦歴

明治新政府は富国強兵の国策を掲げ明治四年に御親兵を創設し、廃藩置県断行し常備兵陸軍は四鎮台制編成。六年に六鎮台制編成し、徴兵令発布
大津歩兵第九連隊
大阪鎮台に所属し、徴兵された奈良の壮丁は第九連隊に入隊し、西南戦争・日清戦争に参加した
奈良歩兵三八連隊
明治三十一年に大津で創設、大正十四年奈良に移駐した。日露戦争では奉天会戦等で赫々たる武勲をたてた。大正八年シベリア出兵で満州に派遣。大連・旅順の警備に従事した。昭和六年の満州事変で満州に派遣。
十二年七月支那事変勃発
動員され十四年まで二年間 北支・上海・南京・徐州・漢口攻略戦などの多くの戦闘に参加した。
十六年十二月大東亜戦争勃発
南マリアナ方面に派遣される。
グワム島の防衛戦で奮戦玉砕
サイパン玉砕に大本営は百雷衝撃し十九年二月第二九師団と混成第四八旅団を満州から転用し誉高い第三八聯隊や善通寺・甲府等で編成された。米軍の上陸準備砲爆撃は激烈、地上軍事施設を完膚なきまで打ち砕いた。七月二十一日、米軍は四百隻の大艦隊と多数の爆撃機で猛爆撃し上陸を開始した。日本軍よく応戦し水際撃退する。敵は我軍の火力源を封殺し怒涛の如く進攻。我兵屈せず力戦敢闘し、水際躍進したが遂に上陸される。奈良連隊はアガット地区を防衛し彼我の兵力は一対十五で、砲力の比は一対百であった。浜辺の戦闘で多数の敵を殺傷奮戦したが、我第一大隊は米軍の艦砲射撃で殆ど壊滅した。第二・第三大隊は突撃を敢行し激戦の末砂上は彼我の屍で埋められた。
末永連隊長は全兵力の夜襲戦で敵の橋頭堡破砕を決意して敢行し一時米軍を撃退しその勢いは壮烈を極めた。が連隊長壮烈戦死し将兵玉砕した。この状況で一千名の敵を屠ったことはもって瞑すべき奮闘であった。
八月十一日師団長以下自決玉砕し生存者はジャングル籠城戦を続けた。終戦一カ月後の二十年九月十五日生存者が正式調印し投降した。
歩兵第五三連隊・第一五三連隊
第五三連隊は、明治三十八年に編成され日露戦争に参加、四十二年奈良に移り大正十四年宇垣軍縮により廃止された。昭和十六年に第一五三連隊と復活新設された。シベリアより満州支那大陸、東南アジア、太平洋諸地域に転戦赫々たる戦果を挙げた。
奈良歩兵一三八連隊
昭和十三年に奈良で編成、大陸に出動し漢口・南京など中国戦線で活躍した。大東亜戦争の十八年二月シンガポールに上陸しマレー半島の警備に付く。
インパール作戦に参戦
この作戦は十九年三月に牟田口中将の第一五軍がインド領に進攻し、インパールを攻略しようとする作戦であった。奈良の連隊は佐藤中将の第三一師団の隷下にあり兵団の基幹部隊であった。佐藤師団はコヒマを占領し三千の山系を突破し北方よりインパールに到来する英軍を阻止する任務につく。
コヒマ占領後二カ月に亘る激烈な戦闘は英軍の戦車と日本軍の小銃との戦いで、敵は日本軍の対戦車砲が無いことを知り我兵の肉弾攻撃を恐れ壕の近くまで戦車で迫り迫撃砲を雨注し日本軍を殲滅するの戦法を反復した。
この激しい戦闘にも拘わらず、我軍は闘魂の塊でその栄光は世界戦史に不滅であった。しかし我軍には全く食糧・弾丸の補給がなかった。よって第一三八連隊は師団命令で専守防御の陣を張り、ために友軍のインパール突入は不可能な戦況であった。
佐藤師団長は一万の部下を無意味に殺すことは出来ぬと作戦中止を軍に進言した。敵との兵力と空軍と火力の相違は、肉弾突撃は不可能で五月中旬に戦没者は二千数百名となりこのままでは師団壊滅の状態であった。
師団長は現状判断し激しく軍司令部に上申電報し、これに対し軍は更なる前進を下命した。時にアンカラ山脈は雨期となり、人馬の往来を完全に杜絶する状態となった。五月末に雨に呑まれない前に米のある所まで退けと、更には師団将兵を救うだけでなく第一五軍も救済すると抗命罪覚悟の独断退却を敢行した。将兵は苦戦、苦闘を続けた。あと十日遅かったら将兵一万は恐らく山脈の中で玉砕したであろう。七月十日に総司令部の作戦中止が発令。五万の精鋭の生存二万の将兵なお抗戦しサルウィン河防衛戦で終戦となる。
奈良懸護國神社

近くの寺社、観光地

春日大社、東大寺、奈良公園(車で13分)

石上神宮(車で18分)

平城京跡(車で20分)

大和神社(車で23分)

法隆寺(車で29分)

書籍紹介

参考

奈良懸護國神社

奈良懸護國神社|桜花の花

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