大阪護國神社の碑を読む
概要
大阪護國神社には、大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊105,665柱が祀られています。
境内には、仁徳天皇と東郷平八郎元帥をご祭神とする浪速宮もあります。
また、歩いて30分程の所に、住吉大社(住吉神社の総本社)があります。
目次
- 主な慰霊・顕彰碑
- 大東亜戦争に関する碑
- 特攻勇士
- 母に感謝
- 騎兵第四聯隊
- 歩兵第三十七聯隊
- 第六十八師團
- 香8114部隊
- 歩兵第八聯隊
- 野砲兵第四聯隊
- 海軍關係戦歿者
- 豫科練
- 第三四師團通信隊
- 野砲兵第二十六聯隊
- 歩兵第七十九聯隊
- 飛行専修豫備生徒
- 独立輜重兵第五十四大隊
- 海軍大尉 粟井俊夫
- 詩碑
- サイパン島戦没者
- 歩兵第十四聯隊満州第一八〇部隊
- 歩兵第二百十七連隊
- 歩兵第二百十六聯隊
- 騎兵第四聯隊、捜索第四聯隊、騎兵第二十八聯隊、捜索第二十聯隊
- 歩兵第百八聯隊
- その他の碑
- 御参拝記念
- 近くの寺社、観光地
- 書籍紹介
- 参考
大東亜戦争に関する碑
決してあなたたちを忘れない
特攻勇士
碑文
私たちは決してあなたたちを忘れない
あゝ特攻
あゝ特攻
特攻勇士に捧ぐ
大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和十九年十月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当たりする特攻攻撃を敢行、遙かな南の空や海に散華されました。
私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが命を懸けて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその貴い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
大東亜戦争の戦局が一段と厳しくなった昭和十九年十月以降、多くの若者が愛する祖国と家族を護るために一命をなげうち、わが身もろとも敵艦に体当たりする特攻攻撃を敢行、遙かな南の空や海に散華されました。
私たち「特攻勇士の像を奉納する会」一同は、大阪府ご出身の五百余の特攻戦士を慰霊しその功を永く伝えるため、像をここ大阪護國神社に建立いたしました。この像を仰ぐ方々が、若者たちが命を懸けて崇高な「日本人の心」を実践したこと、そして今日の平和と繁栄はその貴い死の上にあることに、ぜひ思いを致されんことを、一同こい願うものであります。
平成二十一年十月二十四日
㈶特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
日本人の心を伝える会
㈶特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
日本人の心を伝える会
関連
母に感謝
碑文
母に感謝の像
辛い時 悲しい時 何時も 私達を 力強く抱きしめ 励まし育ててくれた 母の姿を 忘れてはならない お母さん ありがとう
財団法人 日本遺族会 会長 古賀誠 書
平成十八年五月吉日建立
㈶大阪府遺族連合会 戦没者遺児 住之江会
平成十八年五月吉日建立
㈶大阪府遺族連合会 戦没者遺児 住之江会
数々の功績を残す
騎兵第四聯隊
碑文
騎兵第四联隊 慰霊
大槻章 書
騎兵第四联隊 騎兵第百四大隊 捜索第三十四联隊 騎兵第七十五联隊 捜索第四联隊 独立輜重第五十四大隊 独立輜重第五十五大隊
碑文
騎兵第四聯隊は明治二十二年に創立され 明治二十五年二ヶ中隊の大隊となる
明治二十九年十一月十九日軍旗を奉載す
爾来 日露戦争支那事変大東亜戦争等 第四師團隷下各部隊に伍し或は所属す
捜索騎兵特科部隊として斥候伝令 或は長駆挺進し友軍戦勝の快挙に寄與し数々の功績を残す
砲煙弾雨により軍旗は焼失し房のみとなる
戦後全國に魁け旧眞田山兵舎史跡碑最上段に忠魂碑を建立 毎年十一月三日に慰霊祭を行い英霊顕彰の誠を奉持する
茲に平成六年度第四十二回慰霊祭を期し多数御遺族の御賛同を賜り 騎兵第四連隊慰霊碑建立発起委員会を結成 本慰霊碑を建立す
明治二十九年十一月十九日軍旗を奉載す
爾来 日露戦争支那事変大東亜戦争等 第四師團隷下各部隊に伍し或は所属す
捜索騎兵特科部隊として斥候伝令 或は長駆挺進し友軍戦勝の快挙に寄與し数々の功績を残す
砲煙弾雨により軍旗は焼失し房のみとなる
戦後全國に魁け旧眞田山兵舎史跡碑最上段に忠魂碑を建立 毎年十一月三日に慰霊祭を行い英霊顕彰の誠を奉持する
茲に平成六年度第四十二回慰霊祭を期し多数御遺族の御賛同を賜り 騎兵第四連隊慰霊碑建立発起委員会を結成 本慰霊碑を建立す
平成六年十一月三日 大阪騎兵会
三十二年式 甲軍刀 四四式 騎兵銃
悠久の大義に身命を捧げられし
歩兵第三十七聯隊
碑文
歩兵第三十七聯隊 慰霊碑
杉田一次 書
碑文
歩兵第三十七聯隊は 明治二十九年十一月二十日 聯隊創設の編成大命発令により誕生す 明治三十一年三月二十四日 勅語と共に軍旗一旒を親授さる
明治三十七年三月 日露戦争勃発するや聯隊は参戦し前石橋子の奮戦 奉天城占領等 数々の武勲を樹て感状を授与され其の名を内外に宣揚し明治三十八年十二月凱旋す
爾来 朝鮮半島 台湾 青島 天津等の守備また北支駐屯等約三十年にわたり支隊派遣 一意専心 国家守護に任じたり 昭和十二年四月 満洲派遣の大命降下 日露戦争以来の軍旗と共に出動 わが聯隊は菊水部隊として勇躍渡満し満洲事変 支那事変 大東亜戦争へと展開 移駐 転戦し北は満洲 支那大陸 南はフィリッピン スマトラ インドシナ タイ ビルマ 印度洋上の離島等にて忠節を尽くし終戦を迎う
然しながら日露の役より大東亜戦争終結に至るまで国に報ゆるため悠久の大義に身命を捧げられしもの数千柱を数うるなり
ここ 大阪護国神社神域に碑を建立し尊き英霊の偉勲を偲び慰霊の誠を捧ぐ
明治三十七年三月 日露戦争勃発するや聯隊は参戦し前石橋子の奮戦 奉天城占領等 数々の武勲を樹て感状を授与され其の名を内外に宣揚し明治三十八年十二月凱旋す
爾来 朝鮮半島 台湾 青島 天津等の守備また北支駐屯等約三十年にわたり支隊派遣 一意専心 国家守護に任じたり 昭和十二年四月 満洲派遣の大命降下 日露戦争以来の軍旗と共に出動 わが聯隊は菊水部隊として勇躍渡満し満洲事変 支那事変 大東亜戦争へと展開 移駐 転戦し北は満洲 支那大陸 南はフィリッピン スマトラ インドシナ タイ ビルマ 印度洋上の離島等にて忠節を尽くし終戦を迎う
然しながら日露の役より大東亜戦争終結に至るまで国に報ゆるため悠久の大義に身命を捧げられしもの数千柱を数うるなり
ここ 大阪護国神社神域に碑を建立し尊き英霊の偉勲を偲び慰霊の誠を捧ぐ
平成五年十一月建之 歩三七会
歩兵第三十七聯隊 創立一〇〇周年 記念碑
碑文
歩兵第三十七聯隊は明治三十一年三月二十四日編成完了と同時に明治陛下より勅語を賜り軍旗を拝受してより平成十年度は創立一〇〇周年を迎える事となりその記念として本碑を建てるものである。
聯隊は創立以来半世紀に亘り内に在っては大阪衛戍部隊として國土防衛に任じ、外に征つては日露戦争以降大東亜戦争に至る間 常に第一線部隊として戦史に輝く武勲を立て菊水部隊として勇戦奮斗してまいりました。
この間二千余柱の将兵が悠久の大義に生き國家の為め殉ぜられた。
その御霊の神鎮まりますこの神域にて慰霊顕彰すると共に在天の英霊の御加護を得て茲に國の弥栄を祈念するものであります。
聯隊は創立以来半世紀に亘り内に在っては大阪衛戍部隊として國土防衛に任じ、外に征つては日露戦争以降大東亜戦争に至る間 常に第一線部隊として戦史に輝く武勲を立て菊水部隊として勇戦奮斗してまいりました。
この間二千余柱の将兵が悠久の大義に生き國家の為め殉ぜられた。
その御霊の神鎮まりますこの神域にて慰霊顕彰すると共に在天の英霊の御加護を得て茲に國の弥栄を祈念するものであります。
平成十年五月吉日 歩三七会 建之
祖國に殉じたる忠魂
第六十八師團
碑文
檜 第六十八師團 慰霊碑
大場軍勝 書
昭和六十二年十一月吉日建之
檜六八會 檜盧山會 檜ろくいち會 檜六二會 檜六三會 檜六四會 檜五八會 檜六五會 檜一一五會 檜一一六會 檜一一七會 檜工九江會 檜通信隊戦友會 檜輜重隊戦友會 檜九八會 檜紫友會
檜六八會 檜盧山會 檜ろくいち會 檜六二會 檜六三會 檜六四會 檜五八會 檜六五會 檜一一五會 檜一一六會 檜一一七會 檜工九江會 檜通信隊戦友會 檜輜重隊戦友會 檜九八會 檜紫友會
師團戰歴
檜第六十八師團は、昭和十七年四月中國江西省九江に於いて編成さる。その基幹となれる獨立混成第十四旅團は、十四年四月編成以降、同地區にありて盧山攻略戰、宜昌作戰、第一次・第二次長沙作戰等に参加したる武勲に輝く部隊なり。
師團編成後は九江および大冶地區の警備に任ぜしほか、浙贛作戰、大別山作戰、江北・江南殲滅作戰、常徳殲滅作戰に参加し、その勇名を轟かせたり。更に十九年五月、派遣軍が三十六萬の兵力を動員し、大陸縦貫打通を目指す湘桂作戰開始に當たり、長駆して衡陽に突進、四十数日間に及ぶ激戰の末、多大の犠牲を出すも遂にこれを陥落せしめたり。
以来、全県作戰、常寧攻略戰、南部粤漢打通作戰、芷江作戰等に参加、湖南省各地を轉戰、二十年八月各要域を警備中に終戰を迎う。因って已むなく戈 をおさめ、二十一年六月内地に復員す。又、師團より轉属せる將兵は、征部隊(南昌地區)震動部隊(郴縣地區)に在りて善戰よくその任を全うせり。
この間、銃弾に斃れ、或は病魔に冒されて戰歿せし將兵、實に一萬六百餘柱、痛恨まことに極まりなし。
祖國に殉じたる忠魂に思いを馳せ、ここに碑を建立し、その忠誠を慰靈せんとするものなり。
檜第六十八師團は、昭和十七年四月中國江西省九江に於いて編成さる。その基幹となれる獨立混成第十四旅團は、十四年四月編成以降、同地區にありて盧山攻略戰、宜昌作戰、第一次・第二次長沙作戰等に参加したる武勲に輝く部隊なり。
師團編成後は九江および大冶地區の警備に任ぜしほか、浙贛作戰、大別山作戰、江北・江南殲滅作戰、常徳殲滅作戰に参加し、その勇名を轟かせたり。更に十九年五月、派遣軍が三十六萬の兵力を動員し、大陸縦貫打通を目指す湘桂作戰開始に當たり、長駆して衡陽に突進、四十数日間に及ぶ激戰の末、多大の犠牲を出すも遂にこれを陥落せしめたり。
以来、全県作戰、常寧攻略戰、南部粤漢打通作戰、芷江作戰等に参加、湖南省各地を轉戰、二十年八月各要域を警備中に終戰を迎う。因って已むなく
この間、銃弾に斃れ、或は病魔に冒されて戰歿せし將兵、實に一萬六百餘柱、痛恨まことに極まりなし。
祖國に殉じたる忠魂に思いを馳せ、ここに碑を建立し、その忠誠を慰靈せんとするものなり。
昭和六十二年十一月吉日
檜第六十八師團慰靈碑建立委員会
檜第六十八師團慰靈碑建立委員会
戰歿者祭祀部隊名
第六十八師團司令部 歩兵第五十七旅團司令部 獨立歩兵第六十一大隊 獨立歩兵第六十二大隊 獨立歩兵第六十三大隊 獨立歩兵第六十四大隊 歩兵第五十八旅團司令部 獨立歩兵第六十五大隊 獨立歩兵第百十五大隊 獨立歩兵第百十六大隊 獨立歩兵第百十七大隊 第六十八師團工兵隊 第六十八師團通信隊 第六十八師團輜重隊 第六十八師團野戦病院 第六十八師團病馬廠
第六十八師團司令部 歩兵第五十七旅團司令部 獨立歩兵第六十一大隊 獨立歩兵第六十二大隊 獨立歩兵第六十三大隊 獨立歩兵第六十四大隊 歩兵第五十八旅團司令部 獨立歩兵第六十五大隊 獨立歩兵第百十五大隊 獨立歩兵第百十六大隊 獨立歩兵第百十七大隊 第六十八師團工兵隊 第六十八師團通信隊 第六十八師團輜重隊 第六十八師團野戦病院 第六十八師團病馬廠
軍馬 軍犬 軍鳩之碑
殉国の英霊
香8114部隊
碑文
殉国の英霊 このところに鎮まる
中山二郎 書
アカシヤの 歌想ひ出す 友の顔
昭和53年8月 香親会一同 建之
献木 捧英霊
香8114部隊 第四中隊
香8114部隊 第四中隊
昭和五十年四月吉日 香親会一同 建之
平和の礎
歩兵第八聯隊
碑文
平和の礎 歩兵第八聯隊慰霊碑
慰霊碑記
昭和天皇御製
国のため たふれし人の 魂をしも
つねなぐさめよ あかるく生きて
国のため たふれし人の 魂をしも
つねなぐさめよ あかるく生きて
歩兵第八聯隊は 明治七年五月十四日創設 同年十二月十八日軍旗を親授せられ尓来七十有余年にわたり国土の防衛に任じた
この間西南之役をはじめ日清戦争 台湾警備 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加し満洲 台湾 中国 フィリピン スマトラ インドシナ 泰等の各地に赴きニ千七百名余の戦歿者を出した
ここに大阪護国神社柳澤寮宮司の揮毫をいただいて碑を建て亡き戦友の偉勲を偲び慰霊の誠を捧げる
嗚呼 英霊は平和の礎
この間西南之役をはじめ日清戦争 台湾警備 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加し満洲 台湾 中国 フィリピン スマトラ インドシナ 泰等の各地に赴きニ千七百名余の戦歿者を出した
ここに大阪護国神社柳澤寮宮司の揮毫をいただいて碑を建て亡き戦友の偉勲を偲び慰霊の誠を捧げる
嗚呼 英霊は平和の
平成元年五月 歩八会
歩兵第八聯隊歌
- 朝日輝く生駒山
夕陽彩るちぬの海
千古歴史の影宿し
豊に流るる大淀の
河辺に立ちて武を練るは
我等歩八の健男児 - 国史に著き攝河泉
忠臣義士の血を稟けて
生ひ立つ我等今茲に
召出されて大君の
醜の御盾と仕ふなる
光栄何に譬ふべき
我等は砲兵 皇國の護り
野砲兵第四聯隊
碑文
鎮魂
昭和五十七年四月吉日
信太山砲四会 協賛一般有志 建之
信太山砲四会 協賛一般有志 建之
御霊所属部隊
野砲兵第四聨隊 中部第二七部隊 野砲兵第一〇四聨隊 野砲兵第三四、第三〇聨隊 野砲兵第四二、第四四聨隊 野砲兵第二一聨隊第三大隊 独立野戦高射砲第四二聨隊 独立混成第二、第五、第八三、第一二三旅団砲兵隊 船舶砲兵隊 四号砲兵情報班 満州第八七一部隊 其の他関聨諸部隊
野砲兵第四聨隊 中部第二七部隊 野砲兵第一〇四聨隊 野砲兵第三四、第三〇聨隊 野砲兵第四二、第四四聨隊 野砲兵第二一聨隊第三大隊 独立野戦高射砲第四二聨隊 独立混成第二、第五、第八三、第一二三旅団砲兵隊 船舶砲兵隊 四号砲兵情報班 満州第八七一部隊 其の他関聨諸部隊
部隊歴史の概要
野砲兵第四聨隊 明治三年大阪砲兵隊編成さる、明治七年佐賀の乱、九年萩の乱、十三年西南戦役に出動、十七年砲兵第四聨隊と改称す。明治二十七年日清戦争には澎湖島へ、二十九年一部台湾に出動、三十七年日露戦争に於いては満州に出動奮戦し第二軍司令官より感状を受く、明治四十年野砲兵第四聨隊と改称し、大正八年大阪法円坂より信太山に兵営を移転した。昭和十二年七月より支那事変・引続き大東亜戦争に出動し、内 蒙、満州、北・中・南支・比島・スマトラ・泰國等々各地に転戦奮戦したが昭和二十年終戦により復員解散す。
野砲兵第一〇四聨隊 昭和十三年六月編成され南支各地に転戦し終戦のため復員、解散す。
野砲兵第三四聨隊 昭和十四年四月編成され中支各地に転戦し昭和十八年六月野砲兵第三〇聨隊に改編し比島ミンダナオ島に転戦し終戦、復員、解散す。
中部第二七部隊 昭和十二年四月本隊出動後の野砲兵第四聨隊留守隊は昭和十五年七月中部第二七部隊と改称、昭和二十年三月大阪師管区砲兵補充隊と改称し終戦により解散す。
其の他関聨諸隊 昭和十二年以降終戦迠 までの間、中部第二七部隊に於いて編成せられた前記部隊の外、野砲兵第四二、第四四聨隊、独立混成第二、第五、第八三、第一二三旅団砲兵隊、船舶砲兵、高射砲隊、四号砲兵情報班等々幾多の部隊が編成せられ、陸、海、全戦線に出動奮戦、又本土決戦部隊は各地に於いて決戦態勢にあったが終戦の大命を拝し各部隊涙を呑んで復員、解散したのである。
以上
野砲兵第四聨隊 明治三年大阪砲兵隊編成さる、明治七年佐賀の乱、九年萩の乱、十三年西南戦役に出動、十七年砲兵第四聨隊と改称す。明治二十七年日清戦争には澎湖島へ、二十九年一部台湾に出動、三十七年日露戦争に於いては満州に出動奮戦し第二軍司令官より感状を受く、明治四十年野砲兵第四聨隊と改称し、大正八年大阪法円坂より信太山に兵営を移転した。昭和十二年七月より支那事変・引続き大東亜戦争に出動し、内
野砲兵第一〇四聨隊 昭和十三年六月編成され南支各地に転戦し終戦のため復員、解散す。
野砲兵第三四聨隊 昭和十四年四月編成され中支各地に転戦し昭和十八年六月野砲兵第三〇聨隊に改編し比島ミンダナオ島に転戦し終戦、復員、解散す。
中部第二七部隊 昭和十二年四月本隊出動後の野砲兵第四聨隊留守隊は昭和十五年七月中部第二七部隊と改称、昭和二十年三月大阪師管区砲兵補充隊と改称し終戦により解散す。
其の他関聨諸隊 昭和十二年以降終戦
以上
昭和五十七年四月吉日
信太山砲四会
信太山砲四会
大和魂弾丸にこめて 撃てよ世界の夜明けの空に 我等は砲兵 皇國の護り
國を出てから幾月ぞ ともに死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通ふ
愛馬の碑
その貴い生命を祖国に捧げて
海軍關係戰歿者
碑文
海軍關係戰歿者 慰霊碑
碑文
明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝国海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和二十年八月十五日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御 楯として散華した。
大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以てその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
明治初年に創設され、その後幾多の輝かしい歴史と伝統を保有し、わが国の栄光と国威の象徴として、国民に尊敬され親しまれた日本帝国海軍は、さきの太平洋戦争において善戦空しく敗れ、昭和二十年八月十五日の終戦と共に、その八十年の長い歴史を閉じた。
この戦において、四十万余の海軍軍人・軍属が、その貴い生命を祖国に捧げて勇戦奮闘の末、国の御
大阪を中心とする近隣府県在住の海軍関係生存者ら有志相寄り相図り、ここ大阪護国神社の聖域に慰霊の碑を建立した。
海軍を弔い、永遠の平和を希求し、戦没者に心から慰霊の誠を捧げ、以てその芳勲を千秋に伝えんとするものである。
昭和六十年五月
海軍関係戦没者慰霊碑建立委員会
委員長 岡山幸雄
海軍関係戦没者慰霊碑建立委員会
委員長 岡山幸雄
一死もって国難に殉ぜん
豫科練
碑文
豫科練 貴様と俺と翼之碑
昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。
予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、赫々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来たるや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。嗚呼
予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともにわが航空戦力の中核となって、赫々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来たるや、祖国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に敢然として散華していった。
我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。嗚呼
昭和57年12月5日 関西甲飛会 建之
崇高なる義務を完う
第三四師團通信隊
碑文
鎮魂 第三四師團通信隊
第三十四師團通信隊部隊歴
昭和十四年三月十一日軍令甲第六号により第三十四師團通信隊編成下令
仝年四月三日中國派遣の為大阪港出帆
四月十三日漢口上陸
黄波県に進出 同地区の警備
仝年十一月中旬 江西省南昌市に移駐
爾後五ヶ年同地区の警備に任ず
この間 第一次錦江 第二次錦江 浙贛 大別山 江南 常徳 湘西等幾多の作戦に参加 軍の中枢部隊として通信の重責を果たす
昭和二十年八月十五日停戦命令
翌年二月二十三日帰國の為上海出帆
三月八日博多港に上陸
仝日復員完結
昭和十四年三月十一日軍令甲第六号により第三十四師團通信隊編成下令
仝年四月三日中國派遣の為大阪港出帆
四月十三日漢口上陸
黄波県に進出 同地区の警備
仝年十一月中旬 江西省南昌市に移駐
爾後五ヶ年同地区の警備に任ず
この間 第一次錦江 第二次錦江 浙贛 大別山 江南 常徳 湘西等幾多の作戦に参加 軍の中枢部隊として通信の重責を果たす
昭和二十年八月十五日停戦命令
翌年二月二十三日帰國の為上海出帆
三月八日博多港に上陸
仝日復員完結
戦没者慰霊碑
第二次世界大戦に郷土通信部隊の一員として参加し中國の山野に於て祖国のため崇高なる義務を完うして散華された御霊八十八柱の冥福を祈る
友よ安らかに眠り給え
第二次世界大戦に郷土通信部隊の一員として参加し中國の山野に於て祖国のため崇高なる義務を完うして散華された御霊八十八柱の冥福を祈る
友よ安らかに眠り給え
昭和五十九年三月 戦友一同
軍馬 軍鳩之碑
つわもの
野砲兵第二十六聯隊
碑文
つわもの之碑 野砲兵第二十六联隊
陸軍少将 正四位 勲三等 功四級 吉富徳三 謹書
野砲兵第二十六聯隊 聯隊歴史
大正八年四月
野砲兵第二十六聯隊創立(朝鮮竜山)
自昭和三年七月
至昭和三年九月
至昭和三年九月
鮮満国境地区警備の為臨時山砲小隊編成出動す
昭和五年四月
聯隊に高射砲部隊配属 平壌に駐屯す
自昭和六年八月
至昭和七年五月
至昭和七年五月
満洲事変の爲 奉天長春及チチハル方面に出動す
昭和七年六月
鴨綠江警備の爲 臨時山砲中隊編成し出動す
自昭和十二年七月
至昭和十五年一月
至昭和十五年一月
支那事変の爲 、北支・河北省・山西省方面に出動す
その間軍司令官より感状を受賞す
その間軍司令官より感状を受賞す
昭和十六年十一月
臨時編成に伴い野砲兵第二十六聯隊及野砲兵第二十六聯隊補充隊改編される
昭和十八年六月
平譲師団野砲兵聯隊新設に伴い聯隊及補充隊より充足要員転出し大東亜戰争の爲 南比島方面出動す
昭和十八年十一二月
大東亜戰争の爲 聯隊はニューギニヤ方面に出動す
その間軍司令官より感状を受賞す
その間軍司令官より感状を受賞す
昭和十九年二月
野砲兵第二十六聯隊補充隊改編に伴い山砲兵第四十九聯隊新設 同年五月ビルマ方面に出動す
昭和二十年八月
戰争終結に伴い解散す
愛馬之碑
戰友はこゝに眠る
歩兵第七十九聯隊
碑文
龍山歩兵第七十九聯隊 戰友はこゝに眠る
山﨑孝三 書
昭和五十七年四月十七日建之
歩兵第七十九聯隊戦友会
歩兵第七十九聯隊戦友会
通称名
野戰隊 朝二〇五四部隊
補充隊 朝鮮第二十三部隊
野戰隊 朝二〇五四部隊
補充隊 朝鮮第二十三部隊
闻㐂城死守
敵ハ増シ緑ハ茂リ月末ダ出デズ
弾薬ツキルモ援隊ヲ乞ハズ
ナレド敵弾城壁ヲユルガス
糧秣ニカヘン犬マダ多ケレバ
粉骨砕身以テ死守セム
決意ハカタシ闻㐂城
敵ハ増シ緑ハ茂リ月末ダ出デズ
弾薬ツキルモ援隊ヲ乞ハズ
ナレド敵弾城壁ヲユルガス
糧秣ニカヘン犬マダ多ケレバ
粉骨砕身以テ死守セム
決意ハカタシ闻㐂城
この詩文は 昭和十三年五月 晋南奪還を呼号する敵は 衛立煌將軍の指揮する四十数ヶ師の大軍を以って 広大なる戦域に散在する我が第二十師団を十重二十重に分断包囲す 我が歩兵第七十九聯隊は師団主力より遠く敵中一〇〇粁の運城 安邑 聞喜に夫々孤立し弾薬糧秣の補給を断たる 森本聯隊長以下光輝ある軍旗を奉じ鉄石の団結と必勝の確信を以って飢えに耐え弾雨を冒し艱難を凌ぐ 必死の攻防戦は七月七日まで続き 籠城戦は実に五十余日に及びたり
聞喜城死守の詩文は 山崎第三大隊の大阪出身兵が籠城戦の一夜 苦戦の実況を焚火の消し炭で書き残した 師団長牛島將軍はこの詩文に感激し 石工の技を持つ兵に炭字の上を「のみ」で彫らせ写真を撮って天覧に供し御嘉賞の栄を賜わる
爾来一年有余 聯隊はこの要衝聞喜城周辺に於て壮絶なる戦いを続け勇敢なる多くの戦友は晋南の華と散った
嗚呼 無雙の偉勲は千載に輝く
戦友よ こゝに帰りて安らかに眠り給え
聞喜城死守の詩文は 山崎第三大隊の大阪出身兵が籠城戦の一夜 苦戦の実況を焚火の消し炭で書き残した 師団長牛島將軍はこの詩文に感激し 石工の技を持つ兵に炭字の上を「のみ」で彫らせ写真を撮って天覧に供し御嘉賞の栄を賜わる
爾来一年有余 聯隊はこの要衝聞喜城周辺に於て壮絶なる戦いを続け勇敢なる多くの戦友は晋南の華と散った
嗚呼 無雙の偉勲は千載に輝く
戦友よ こゝに帰りて安らかに眠り給え
歩兵七十九聯隊戦友一同
歩兵第七十九聯隊経歴
日韓併合により朝鮮半島の鎮護と大陸有事に備え聯隊創設せられ竜山に駐屯す
日韓併合により朝鮮半島の鎮護と大陸有事に備え聯隊創設せられ竜山に駐屯す
大正 五年四月
軍旗拝受
同 八年九月
国境附近の匪賊鎮圧に出動
同 十四年十二月
南満洲治安維持のため混成大隊を奉天に派遣
昭和 二年五月
支那事件のため一部満洲に派遣
同 六年九月
満洲事変のため一部奉天チチハルに派遣
同 十二年七月
北支事変勃発応急動員により軍旗を奉じ天津に出動
爾来河北省山西省に作戦す
その間大原攻略戦 垣曲作戦 平陸殲滅作戦の武功により夫々軍司令官より感状受賞す
爾来河北省山西省に作戦す
その間大原攻略戦 垣曲作戦 平陸殲滅作戦の武功により夫々軍司令官より感状受賞す
同 十五年一月
竜山に帰還
同 十六年七月
関特演のため動員下令
東部の満国境担任兵団として竜山に待機
東部の満国境担任兵団として竜山に待機
同 十八年一月
南方作戦急変により東部「ニューギニヤ」に出動す
この間第九中隊の「カテウ」陣地夜襲
第十中隊の「アント」岬逆上陸は共に感状上聞に達す
この間第九中隊の「カテウ」陣地夜襲
第十中隊の「アント」岬逆上陸は共に感状上聞に達す
同 二十年八月
終戦の大命下る
「モンブック」山中に於て生存将兵百余名は悲憤の涙の裡 に栄光に輝く軍旗を奉焼し我が聯隊の歴史の幕を閉じた
「モンブック」山中に於て生存将兵百余名は悲憤の涙の
動員業務担当大阪師管縁りの地大阪護国神社に慰霊の碑を建立いたし聯隊創設よりの戦歿者七千五百余柱の遺勲を顕彰しその霊をここに祀る
昭和五十七年四月十七日
歩兵第七十九聯隊戦友会
歩兵第七十九聯隊戦友会
歩兵第七十九聯隊 奮戦記
通称名 朝第二〇五四部隊
昭和十八年九月二十二日 敵は大挙東部ニューギニヤ「アント」岬に上陸を開始するや第十八軍攻勢の主体となった我が聯隊は長駆機動すること四〇〇粁 奔流急湍を渡河し 或は峻峰密林の難路を踏破して戦斗に加入し 圧倒的な敵の物量攻撃に屈せず「アント」岬の逆上陸「カチカ」陣地の夜襲斬込 或は壮烈な肉迫攻撃と更に旺盛な攻撃精神を発揮して遂に敵の堅陣を突破し潰走せしめた
この間喰うに食なく戦ふに弾丸なき最悪の窮地にあり 旦敵機の熾烈なる銃爆撃の下 熱帯の諸病魔を克服し長期に亘って力斗奮戦し勇奮凛烈 遺憾なく皇軍の本領を発揮したもので、その戦績は眞に抜群であって広く全軍の亀鑑と仰がれた
通称名 朝第二〇五四部隊
昭和十八年九月二十二日 敵は大挙東部ニューギニヤ「アント」岬に上陸を開始するや第十八軍攻勢の主体となった我が聯隊は長駆機動すること四〇〇粁 奔流急湍を渡河し 或は峻峰密林の難路を踏破して戦斗に加入し 圧倒的な敵の物量攻撃に屈せず「アント」岬の逆上陸「カチカ」陣地の夜襲斬込 或は壮烈な肉迫攻撃と更に旺盛な攻撃精神を発揮して遂に敵の堅陣を突破し潰走せしめた
この間喰うに食なく戦ふに弾丸なき最悪の窮地にあり 旦敵機の熾烈なる銃爆撃の下 熱帯の諸病魔を克服し長期に亘って力斗奮戦し勇奮凛烈 遺憾なく皇軍の本領を発揮したもので、その戦績は眞に抜群であって広く全軍の亀鑑と仰がれた
昭一八・一一・二
杉野舟艇突入隊に感状授与
昭一八・一一・二
甲谷第九中隊に感状授与
昭一九・四・二九
歩兵第七十九聯隊に感状授与
昭一九・九・一九
歩兵第七十九聯隊に感状授与
御霊を永遠に弔う
飛行専修豫備生徒
碑文
慰霊 海軍第一期 飛行専修豫備生徒
碑誌
海軍第一期飛行専修予備生徒は、戰雲急を告げる昭和十八年十二月十日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戰に参加した。主として沖縄特攻、その他数々の戰場に於いて我々は同期一六五名を失った。
戰後三十年ここにその名を銘記し、今は亡き戰友の御霊を永遠に弔うものである。
海軍第一期飛行専修予備生徒は、戰雲急を告げる昭和十八年十二月十日、学業半ばにして臨時現役兵として應召し、各海兵団を経て、三重及び鹿児島の海軍航空隊に於て基礎訓練を受け、中練教程の後、予備士官として実戰に参加した。主として沖縄特攻、その他数々の戰場に於いて我々は同期一六五名を失った。
戰後三十年ここにその名を銘記し、今は亡き戰友の御霊を永遠に弔うものである。
昭和五十一年八月二十二日
同期一生会員 建之
同期一生会員 建之
その存在を後世に留むる
独立輜重兵第五十四大隊
碑文
慰霊 独立輜重兵第五十四大隊
碑誌
独立輜重兵第五十四大隊(通称第六〇〇〇部隊)は昭和十六年八月大阪金岡において編成、直ちに渡満、主として東北満の警備に当たる。
十九年三月移動、華中華南の地にて数次に及ぶ激烈なる作戦に参加、二十年八月終戦を迎う。
抑留期を経て故国に帰還、二十一年七月横須賀において復員解散す。
この間、在満時二十一名在華時六百六十八名総計六百八十九名に上る多数の戦没者を出し、痛恨極まりなし。
終戦後三十三周年を迎うるに当たり、元部隊有志一同、亡き戦友を偲びその霊を弔うため、この地に慰霊碑を建立し英魂録を収め、永久に冥福を祈るとともに、部隊略史を刻記し、その存在を後世に留むるものなり。
独立輜重兵第五十四大隊(通称第六〇〇〇部隊)は昭和十六年八月大阪金岡において編成、直ちに渡満、主として東北満の警備に当たる。
十九年三月移動、華中華南の地にて数次に及ぶ激烈なる作戦に参加、二十年八月終戦を迎う。
抑留期を経て故国に帰還、二十一年七月横須賀において復員解散す。
この間、在満時二十一名在華時六百六十八名総計六百八十九名に上る多数の戦没者を出し、痛恨極まりなし。
終戦後三十三周年を迎うるに当たり、元部隊有志一同、亡き戦友を偲びその霊を弔うため、この地に慰霊碑を建立し英魂録を収め、永久に冥福を祈るとともに、部隊略史を刻記し、その存在を後世に留むるものなり。
昭和五十二年八月
独立輜重兵第五十四大隊 有志一同
独立輜重兵第五十四大隊 有志一同
散りて守らん 大和御空を
海軍大尉 粟井俊夫
碑文
正七位 勲五等
海軍大尉 粟井俊夫之像
海軍大尉 粟井俊夫之像
略歴
大正十年七月四日
大阪市南区内安堂寺町通三丁目二十七番地に岩吉 次男として出生
昭和九年三月
桃園第一尋常小学校卒業
昭和十四年三月
大阪市立天王寺商業学校卒業
昭和十四年四月
立教大学入学
昭和十八年十二月十八日
立教大学商科第二学年在学中、学徒出陣により第十四期予備学生として大竹海兵団に入団
昭和十九年十二月二十五日
海軍少尉任官 筑波航空隊所属となる
昭和二十年四月十六日
神風特別攻撃隊 第三筑波隊員として沖縄方面に出撃 戰死す
昭和二十年七月十九日
特旨により二階級特進 海軍大尉に任ぜらる
辞世(出撃前夜)
学鷲の 何か惜しまん 国のため
散りて守らん 大和御空を
天皇陛下萬歳
散りて守らん 大和御空を
天皇陛下萬歳
昭和四十四年五月吉日
父 粟井岩吉 建立
父 粟井岩吉 建立
関連記事
【内田雅也が書く 野球ができる喜び――コロナ禍の戦後75年(中)】特攻に散った野球人、最後の手紙
詩碑
碑文
皇風洽六合 明徳侔太陽
海軍大将 塩沢幸一 題
皇恩感泣?? 真実明 殉國英霊放仰 追慕碑
昭和十七年八月盛夏
法光尊信 岡本忍一 建之
法光尊信 岡本忍一 建之
補足
「皇風六合に洽く 明徳太陽に侔し」は正気歌(藤田東湖の作った五言古詩)の一節
慰霊
サイパン島戦没者
碑文
慰霊碑
愛甲立身(元部隊長)書
満洲㐧九六〇部隊 歩兵㐧四〇聯隊 サイパン島派遣部隊 有志
サイパン島慰霊碑建立発起人 昭和四十五年三月
英霊安らかならんことを
歩兵第十四聯隊満州第一八〇部隊
碑文
歩兵第十四聨隊満州第一八〇部隊 慰霊碑
昭和六十三年十一月六日
満洲第一八〇部隊大阪勝山会戦有志建之
満洲第一八〇部隊大阪勝山会戦有志建之
大東亜戦争戦没者英霊に捧ぐ
歩兵第十四聨隊は明治八年小倉に創設、その軍旗は明治十一年一月西南の役の戦功により、再び拝受。爾来日清、日露の戦役、シベリヤ、上海事変に赫々たる武勲を樹て名声全軍に轟く。昭和十一年四月東満に移駐しソ満国境東寧滴道地区の警備に当る。昭和十五年通稱号満洲第一八〇部隊となり、同年以降徴募区も大阪を主体に愛知他二十数区となる。昭和二十年四月本土決戦部隊として宮崎県髙原周辺に進駐、決戦の秋待つも終戦の聖断により戈 を收め光輝ある建軍七十年の歴史を閉ず。この間北辺警備或は邀撃態勢の苛烈な環境下、無念にも病魔に斃れ、將又大東亜戦局急を告ぐ昭和十九年一月以降軍旗と惜別し、サイパン島はじめ南方或は中国大陸その他の戦場に征き、忠烈敢闘悠久の大義に殉ぜられた英霊七百数十柱を超ゆ。痛恨極まりなし。今日祖国の平和繁栄の礎が諸霊の尊い生命により築かれたるを惟い、茲に戦友有志相寄り大阪護国神社の神苑に鎮魂の碑を建立し、亡き戦友を偲び慎みて冥福を祈り、その遺烈を永く伝誦し併せて邦家の安泰と世界永遠の平和を冀う。英霊安らかならんことを
歩兵第十四聨隊は明治八年小倉に創設、その軍旗は明治十一年一月西南の役の戦功により、再び拝受。爾来日清、日露の戦役、シベリヤ、上海事変に赫々たる武勲を樹て名声全軍に轟く。昭和十一年四月東満に移駐しソ満国境東寧滴道地区の警備に当る。昭和十五年通稱号満洲第一八〇部隊となり、同年以降徴募区も大阪を主体に愛知他二十数区となる。昭和二十年四月本土決戦部隊として宮崎県髙原周辺に進駐、決戦の秋待つも終戦の聖断により
昭和六十三年十一月六日
満洲第一八〇部隊戦没者慰霊碑建立実行委員会 謹書
満洲第一八〇部隊戦没者慰霊碑建立実行委員会 謹書
協賛者
大東亜戦争戦歿者遺族有志 大阪勝山会戦有志 十四会戦友有志 愛知地区戦友有志 東京滴道会戦友有志 その他地区戦友有志
大東亜戦争戦歿者遺族有志 大阪勝山会戦有志 十四会戦友有志 愛知地区戦友有志 東京滴道会戦友有志 その他地区戦友有志
英魂ここに集まり安らぎ給う
歩兵第二百十七連隊
碑文
歩兵第二百十七連隊之碑
越山 田中角栄 書
昭和十四年三月廿三日聯隊長落合大佐
宮中ニ於テ優渥ナル勅語ト共ニ軍旗ヲ拜受ス
卽チ菊水ノ流レ汲ミテ編成セラレタル吾カ郷土部隊ハ勇躍大陸ニ渡リ先ツ湖北省河口鎮ニ警備ノ事ニ從フ
此ノ間大別山系ニ七里坪ヲ目サス遊仙山大尖崗ノ初陣ハ殊ニ嚴シク信陽付近ノ掃討 将校斥候ノ健闘ヲ陣中日誌ニ留ム
矛ヲ轉 シテ江西省萬壽宮ニ駐シ南昌西地區ノ鎮メニ當ルヤ 師走冬季攻勢アリ 執拗ナル侵入モ能ク是ヲ挫ク
十五年六號七號作戦ニ續キ省都奪還ヲ圖ル強力ナル夏季攻勢ヲ撃退シ 雷王殿石子堎鶏公山桐山頂南城閔ノ陣地成リ 堅クハ房ヲ要トスル警衛ノ責ヲ全ウス
十六季三月一次錦江作戦ニ長野聯隊長ヲ迎ヘテ上高城畧取ノ力闘 西山嶺覆滅ノ持久戦アリ 歳末𭁡ヒ錦江ヲ渡リ白兵戰ニ自ラ練磨ヲ積ム
十七年初夏浙贛打通ノ大進撃ハ行軍亦行軍 豪雨炎暑ト戰ヒ貴渓一番乗リト威源洞黄家ノ夜襲ニ勇名ヲ馳ス
十八年江北殲滅作戰ノ馬奇岺攻畧ハ寒苦缺乏ニ耐ヘ江南殲滅作戰ノ血闘ハ岩壁屹立ノ堅陣ヲ屠ル 八月木佐木聯隊長ノ下 常徳作戰ニ参加シ三國志ノ古戰場ヲ駈ケテ馬鞍嶺ニ闘ヒ或ハ石崗市ニ圍ミヲ破ル 他方安義若渓ノ護リ二年餘練武ヲ重ヌルノ事アリ
十九年ノ春湖南ノ山河ニ駒ヲ進メテ八ヶ月汨水ニ緒戰シ達磨ノ砦ノ抵抗ヲ除キ長沙ノ要害岳麓桃花ノ縦深陣地ヲ攻メテハ凄絶血ヲ流シ骨ヲ晒ス激闘ニ終ニ凱歌ヲ擧ク
次テ蓮花ニ轉 シ茶陵安仁ニ奮戰シ常寧城ヲ陥シ長駆廣西省全縣湘洙同源ノ境ニ布陣ス
廿年春酣重慶ヲ指シテ楔入セル芷江作戰ハ新寧ヲ衝キ珠玉山武陽萬福橋ヲ抜イテ瓦屋塘ニ突進 茶山ノ嶮 ヲ制シテ血戰數合反轉ニ移ルヤ雪峯ノ峻ヲ攀チ槗当頭高沙市鰱魚渡關家橋ニ倍蓰スル衆ノ肉薄ヲカハシ追尾ヲ断チ芙蓉ノ堅壘ヲ抑ヘテ友軍ヲ援ケ辛ウシテ出師ノ目的ヲ達ス 遷リテ宝慶湘潭ヲ東進奉新ヲ經テ将ニ九江ニ到ラントシテ途ニ終戰ノ 詔 ヲ承ル 嗟呼
南京北岸ニ屯 シ浦口ニ於テ 軍旗ト永訣ス
憶フニ 御旗ヲ捧シタル部隊將士ノ盡忠ノ誠ハ凝ツテ屢次ノ感状賞詞トナリ使命達成ニ粉骨砕身シテ七載ニ及ヒタリキ
爾来廿八星霜 夫〃家郷ニ在リテ只管復興ニ勵ミ漸ク祖國ノ顯榮ヲ視ルモ飛撣ニ斃レ瘴癘ニ臥シテ骨ヲ異郷ニ埋メタル英靈ニ千三百餘柱ノ貴キ生命ニ依リテコソ今日ノ日本ノ創ラレタルヲ惟ヒ先ニ大阪護國神社ニ愼ンテ報祀シ又戰史ヲ編ンテ魂魄安カレト念ス 更ニ聯隊團結ノ赤心ハ碑ヲ樹テ靖國ノ神䰟ヲ鎮メマツリ邦家ノ安泰ト世界ノ和平ヲ祈ランコトヲ發心シ歩兵第二百十七聯隊之碑茲ニ工成ル 希クハ諸靈倶ニ来鑒(鑑)シテ嘉シ給ハシコトヲ
宮中ニ於テ優渥ナル勅語ト共ニ軍旗ヲ拜受ス
卽チ菊水ノ流レ汲ミテ編成セラレタル吾カ郷土部隊ハ勇躍大陸ニ渡リ先ツ湖北省河口鎮ニ警備ノ事ニ從フ
此ノ間大別山系ニ七里坪ヲ目サス遊仙山大尖崗ノ初陣ハ殊ニ嚴シク信陽付近ノ掃討 将校斥候ノ健闘ヲ陣中日誌ニ留ム
矛ヲ
十五年六號七號作戦ニ續キ省都奪還ヲ圖ル強力ナル夏季攻勢ヲ撃退シ 雷王殿石子堎鶏公山桐山頂南城閔ノ陣地成リ 堅クハ房ヲ要トスル警衛ノ責ヲ全ウス
十六季三月一次錦江作戦ニ長野聯隊長ヲ迎ヘテ上高城畧取ノ力闘 西山嶺覆滅ノ持久戦アリ 歳末𭁡ヒ錦江ヲ渡リ白兵戰ニ自ラ練磨ヲ積ム
十七年初夏浙贛打通ノ大進撃ハ行軍亦行軍 豪雨炎暑ト戰ヒ貴渓一番乗リト威源洞黄家ノ夜襲ニ勇名ヲ馳ス
十八年江北殲滅作戰ノ馬奇岺攻畧ハ寒苦缺乏ニ耐ヘ江南殲滅作戰ノ血闘ハ岩壁屹立ノ堅陣ヲ屠ル 八月木佐木聯隊長ノ下 常徳作戰ニ参加シ三國志ノ古戰場ヲ駈ケテ馬鞍嶺ニ闘ヒ或ハ石崗市ニ圍ミヲ破ル 他方安義若渓ノ護リ二年餘練武ヲ重ヌルノ事アリ
十九年ノ春湖南ノ山河ニ駒ヲ進メテ八ヶ月汨水ニ緒戰シ達磨ノ砦ノ抵抗ヲ除キ長沙ノ要害岳麓桃花ノ縦深陣地ヲ攻メテハ凄絶血ヲ流シ骨ヲ晒ス激闘ニ終ニ凱歌ヲ擧ク
次テ蓮花ニ
廿年春酣重慶ヲ指シテ楔入セル芷江作戰ハ新寧ヲ衝キ珠玉山武陽萬福橋ヲ抜イテ瓦屋塘ニ突進 茶山ノ
南京北岸ニ
憶フニ 御旗ヲ捧シタル部隊將士ノ盡忠ノ誠ハ凝ツテ屢次ノ感状賞詞トナリ使命達成ニ粉骨砕身シテ七載ニ及ヒタリキ
爾来廿八星霜 夫〃家郷ニ在リテ只管復興ニ勵ミ漸ク祖國ノ顯榮ヲ視ルモ飛撣ニ斃レ瘴癘ニ臥シテ骨ヲ異郷ニ埋メタル英靈ニ千三百餘柱ノ貴キ生命ニ依リテコソ今日ノ日本ノ創ラレタルヲ惟ヒ先ニ大阪護國神社ニ愼ンテ報祀シ又戰史ヲ編ンテ魂魄安カレト念ス 更ニ聯隊團結ノ赤心ハ碑ヲ樹テ靖國ノ神䰟ヲ鎮メマツリ邦家ノ安泰ト世界ノ和平ヲ祈ランコトヲ發心シ歩兵第二百十七聯隊之碑茲ニ工成ル 希クハ諸靈倶ニ来鑒(鑑)シテ嘉シ給ハシコトヲ
昭和四十八年三月
歩兵第二百十七聨隊會 謹誌
歩兵第二百十七聨隊會 謹誌
第二次世界大戰に際し身命を祖國に捧げて大陸に奮闘した浪速健兒ら郷圡部隊勇士の英魂ここに集まり安らぎ給う
軍馬 軍犬 軍鳩之碑
その武勲は燦として千載に輝く
歩兵第二百十六聯隊
碑文
鎮魂 歩兵第二百十六聯隊
我が聯隊は昭和十四年三月編成され翌四月軍旗を奉戴して勇躍中支戦線に参加して漢口に上陸 以来終戦により安慶に於いて軍旗と永訣する迄七星霜 支那派遣軍の精鋭第三十四師團(椿部隊)の中核として宜昌作戦をはじめ十二、十三號作戦、二次に亘る錦江作戦、豫南作戦、汚陽作戦、浙贛作戦、江北及び江南殲滅作戦、常徳作戦、湘桂作戦、芷江作戦等相次ぐ大作戦に参加 屢次軍司令官感状賞詞を受け赫々の戦果を擧げた この間飢餓酷暑寒苦に耐え瘴癘と闘い勇戦奮闘祖國に殉ぜられた英靈二千三百六十二柱 その武勲は燦 として千載に輝く 我等復員以来家郷に在って一向祖國復興発展に力を盡くして来たが嘗て死生心契の諸靈の忠烈敢闘の姿脳裡を去来しその遺志に勵まされ加護により今日夢想さえしなかった繁栄を成し國民均しく平和を慶ぶ 茲に積年の宿願漸く實って戦史を編纂 鴻烈を偲び鎮魂の碑を建立、遺勲を顕彰冥福を祈り併せて祖國永遠の平和を冀う
昭和五十二年九月
歩兵第二百十六聯隊戦友會
歩兵第二百十六聯隊戦友會
第二次世界大戰に於いて勇戰敢闘祖國に殉ぜられたる忠靈永久に茲に鎮まる
軍馬 軍犬 軍鳩之碑
鎮魂
騎兵第四聯隊、捜索第四聯隊、騎兵第二十八聯隊、捜索第二十聯隊
碑文
鎮魂
大阪府知事 岸昌 書
第二次世界大戰終結四拾周年記念
昭和六十年拾月参日建之
騎捜鎮魂會
第二次世界大戰終結四拾周年記念
昭和六十年拾月参日建之
騎捜鎮魂會
騎兵㐧四联隊 捜索㐧四联隊 騎兵㐧二十八联隊 捜索㐧二十联隊
愛馬之碑
騎兵㐧一〇四大隊 騎兵㐧七十五联隊 捜索㐧三十四联隊 騎兵㐧四十一联隊 騎兵㐧四十九联隊 捜索㐧三十联隊
ここに鎮まる
歩兵第百八聯隊
碑文
歩兵第百八联隊 つわもの之霊 ここに鎮まる
通稱 菊水部隊 鳳第八九六四部隊
建立 戦友一同
昭和五十三年十月十五日
昭和五十三年十月十五日
歩兵第百八聯隊戰歴
通稱 菊水部隊 鳳第八九六四部隊
通稱 菊水部隊 鳳第八九六四部隊
昭和十三年
六月歩兵第八聯隊に於て編成 大阪府中央以北と淡路島出身者を主とし約四五〇〇名 軍旗拝受 満洲派遣
八月張鼓峯事件勃發 同地西方にてソ聯軍に對す
十月一轉 南支バイアス灣上陸 廣東進攻作戰
八月張鼓峯事件勃發 同地西方にてソ聯軍に對す
十月一轉 南支バイアス灣上陸 廣東進攻作戰
昭和十四年
廣東西方三水附近、新圩、官窟にあって四月大攻勢を破碎 汕頭攻略戰 花縣平地の戰闘
十一月翁英作戰 粤漢鐵道に沿ひ北上連戰三ヶ月 感状を受く
十一月翁英作戰 粤漢鐵道に沿ひ北上連戰三ヶ月 感状を受く
昭和十五年
良口會戰 廣東北郊警備
昭和十六年
四邑作戰 香港攻略戰を牽制する中國軍大攻勢を三水周邊に於て反撃
昭和十七年
従源作戰 佛山に警備地擴大 補充隊歩兵第六聯隊に變更 愛知縣出身者を主に加う
昭和十八年
廣州灣進攻作戰 警備地擴大
昭和十九年
湘桂作戰(大陸打通作戰) 廣西省柳州西方に轉戰 激戰半歳を越す
昭和二十年
香港東方陸豊海豊に進攻 米軍上陸に備う
八月惠州に於て終戰 軍旗奉燒
八月惠州に於て終戰 軍旗奉燒
昭和二十一年
五月浦賀港歸還 二五八〇名 動員以来この間在隊者 一万名 出身各地におよぶ
昭和五十三年
十月十五日
十月十五日
聯隊發祥の地に慰靈碑並びに軍馬軍犬軍鳩の碑を建立し 戦歿者一千三百餘柱名簿 歸還後の死歿者名簿 建立時判明せる生存者名簿 歩兵第百八聯隊史を永久に納む
軍馬軍犬軍鳩よ安らかに眠れ
建立 戦友一同
筆者 服部敏夫
昭和五十三年十月十五日
筆者 服部敏夫
昭和五十三年十月十五日
その他の碑
御参拝記念
碑文
天皇陛下 皇后陛下 御参拝
皇太子殿下 皇太子妃殿下 御参拝 記念
皇太子殿下 皇太子妃殿下 御参拝 記念
行幸啓の記
天皇皇后両陛下には昭和四十五年七月十五日 当大阪護國神社に御親拝あらせられました
皇太子皇太子妃両殿下には昭和五十三年五月三十一日に御参拝賜わりましたことは遺族、戦友、崇敬者一同この上ない感激でございました
ここに御参拝の光栄と喜びを後世に永く伝えるため記念の碑を建立する次第であります
天皇皇后両陛下には昭和四十五年七月十五日 当大阪護國神社に御親拝あらせられました
皇太子皇太子妃両殿下には昭和五十三年五月三十一日に御参拝賜わりましたことは遺族、戦友、崇敬者一同この上ない感激でございました
ここに御参拝の光栄と喜びを後世に永く伝えるため記念の碑を建立する次第であります
昭和五十四年十二月九日
大阪護國神社宮司 柳澤寮 謹誌
大阪護國神社宮司 柳澤寮 謹誌
近くの寺社、観光地
住吉大社(徒歩26分)など
書籍紹介
参考
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