和歌山縣護國神社の碑を読む
概要
和歌山懸護国神社には、明治戊辰の役以来国難に殉じた和歌山県出身の英霊36,670柱が祀られています。
和歌山城の側にあります。
また、車で20分程の所に、五瀬命を祀る竈山神社(隣に御陵)があります。五瀬命は、神武天皇の兄で東征中に戦傷のため薨去されました。
目次
- 主な慰霊・顕彰碑
- 大東亜戦争に関する碑
- 歩兵第二百三十聯隊
- 予科練
- 歩兵第六十一聯隊
- 陸軍少年飛行兵
- 満蒙開拓青少年義勇軍
- その他の碑
- 天皇・皇后両陛下御親拝記念碑
- 境内改修三十周年記念碑
- 近くの寺社、観光地
- 書籍紹介
- 参考
大東亜戦争に関する碑
この地に永久に留める
歩兵第二百三十聯隊
碑文
魂
歩兵第二百三十聯隊
碑文
戦後三十三周年を迎えるに當たって 遠く南溟瘴癘の地に斃れた戰友 我等と共に戰って異郷に骨を埋めた幾多の英霊を偲び 碑を建て 英魂録を収め 我が部隊の戰史を刻記して この地に永久に留めるものである
戦後三十三周年を迎えるに當たって 遠く南溟瘴癘の地に斃れた戰友 我等と共に戰って異郷に骨を埋めた幾多の英霊を偲び 碑を建て 英魂録を収め 我が部隊の戰史を刻記して この地に永久に留めるものである
昭和五十二年十月
關西歩二三〇の会 戰友一同
關西歩二三〇の会 戰友一同
部隊戦史
昭和十四年八月七日歩兵第二百三十聨隊は(通稱沼八九二六部隊)第三八師団(名古屋)隷下として編成完了 同年十月から南支派遣軍として広東省附近に駐屯諸作戰に参加 昭和十六年十二月八日大東亜戰争緒戰に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第百六十一聨隊より兵員補充 その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名
昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戰に参加 昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸 ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず 補給絶え弾薬糧秣なきまゝ尚敢闘したが部隊の被害九〇%を越える
昭和十八年七月ニュージョージア島作戰に参加
昭和二十一年五月復員完了
昭和十四年八月七日歩兵第二百三十聨隊は(通稱沼八九二六部隊)第三八師団(名古屋)隷下として編成完了 同年十月から南支派遣軍として広東省附近に駐屯諸作戰に参加 昭和十六年十二月八日大東亜戰争緒戰に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第百六十一聨隊より兵員補充 その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名
昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戰に参加 昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸 ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず 補給絶え弾薬糧秣なきまゝ尚敢闘したが部隊の被害九〇%を越える
昭和十八年七月ニュージョージア島作戰に参加
昭和二十一年五月復員完了
大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練
碑文
あゝ 予科練
和歌山県知事 大橋正雄書
予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり
航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度發足以来大東亜戰争終結迄學業半ばの少年が七ッ釦は桜に錨 と志し
卓越せる技倆
旺盛なる攻撃精神
崇高なる犠牲的精神
を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり
支那事変には海鷲として渡洋爆撃の初陣以来開戦劈頭ハワイマレー沖航空戦にその威名を世界に軣かせ我が航空戦力の中核となるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大義に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の國難に殉じたり
祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度發足以来大東亜戰争終結迄學業半ばの少年が七ッ釦は桜に
卓越せる技倆
旺盛なる攻撃精神
崇高なる犠牲的精神
を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり
支那事変には海鷲として渡洋爆撃の初陣以来開戦劈頭ハワイマレー沖航空戦にその威名を世界に軣かせ我が航空戦力の中核となるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大義に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の國難に殉じたり
祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
昭和四十四年十一月三日
予科練和歌山県人会
予科練和歌山県人会
憶念のよすがとならん事を願う
歩兵第二百十八聯隊
碑文
礎 歩兵第二百十八聯隊(椿第六八四四部隊)
昭和五十三年四月十六日
元聯隊長 佐藤文蔵書
祖国と同胞の楯として戦野に散った三千有余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐しい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら 今日泰平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い 年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがとならん事を願って ここに一碑を建てた
み魂 安らかにあれ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐しい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら 今日泰平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い 年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがとならん事を願って ここに一碑を建てた
み魂 安らかにあれ
昭和五十三年四月 歩兵第二百十八聯隊戦友会一同
第三十四師團歩兵第二百十八聯隊(椿六八四四部隊)は昭和十四年三月和歌山において編成 同年四月軍旗を奉じて中支戦線に参加し二十年八月終戦に至るまで終始第一線にあり 強固な団結と旺盛な士気を保持して郷土の名を辱しめなかった この間 湖北新州・江西南昌周辺の戦闘にはじまり両次にわたる錦江作戦 浙贛・江北・江南また常徳等の諸作戦に敢闘 さらに派遣軍掉尾の大陸打通大作戦の一環たる湘桂作戦には 舟艇機動の独立支隊として寡兵挺進し ことに衡陽攻略に勇名を馳せた
勲しを碑として永遠に称えむ
歩兵第六十一聯隊
碑文
鎮魂 歩兵第六十一聯隊
昭和五十五年五月吉日
第十七代聯隊長 鵜澤尚信書
第十七代聯隊長 鵜澤尚信書
合祀部隊名
第一〇四師団 歩兵第一六一聯隊
第三四師団 歩兵第二一八聯隊
第一七師団 歩兵第五三聯隊
第二〇師団 歩兵第七八聯隊
第二〇師団 歩兵第八〇聯隊
第二五師団 歩兵第七〇聯隊
第四四師団 歩兵第九四聯隊
第三八師団 歩兵第二三〇聯隊
第一四四師団 歩兵第四一五聯隊
第一四四師団 歩兵第四一六聯隊
独立混成第二旅団 独立歩兵第三大隊
独立歩兵六七大隊
第六八師団 独立歩兵第一一七大隊
独立混成第三七旅団 独立歩兵第二六七大隊
独立混成第七二旅団 独立歩兵第五四二大隊
独立混成第七ニ旅団 独立歩兵第五四三大隊
独立混成第七ニ旅団砲兵隊
独立混成第七ニ旅団通信隊
野戦補充隊水上勤務第四二中隊
第五三兵站地区隊
第一〇四師団 歩兵第一六一聯隊
第三四師団 歩兵第二一八聯隊
第一七師団 歩兵第五三聯隊
第二〇師団 歩兵第七八聯隊
第二〇師団 歩兵第八〇聯隊
第二五師団 歩兵第七〇聯隊
第四四師団 歩兵第九四聯隊
第三八師団 歩兵第二三〇聯隊
第一四四師団 歩兵第四一五聯隊
第一四四師団 歩兵第四一六聯隊
独立混成第二旅団 独立歩兵第三大隊
独立歩兵六七大隊
第六八師団 独立歩兵第一一七大隊
独立混成第三七旅団 独立歩兵第二六七大隊
独立混成第七二旅団 独立歩兵第五四二大隊
独立混成第七ニ旅団 独立歩兵第五四三大隊
独立混成第七ニ旅団砲兵隊
独立混成第七ニ旅団通信隊
野戦補充隊水上勤務第四二中隊
第五三兵站地区隊
明治三十八年八月八日軍旗を拜受、歩兵第六十一聯隊誕生す。日露戦役のあと和歌山市を衛戍地とし、郷土部隊として県民に親しまれ、信頼されつゝ国土の防衛に任ず。昭和十二年四月北満の警備と治安維持に出動 同十四年八月第二次ノモンハン事変に派兵さる。同十五年七月中支湖北省に転進 常に第四師団の主力として漢水、豫南、大洪山、江北、長沙の各作戦に参加して奮戦す。 昭和十六年十二月第二次世界大戦勃発するや同十七年二月比島ルソン島に進撃、第二次バタアン攻略戦に敵主陣地サマット山を撃破 引続き米極東軍の難攻不落を誇ったコレギドール島要塞に敵前上陸を敢行し占領、本間雅晴軍司令官より部隊感状を授与さる。昭和十七年七月凱旋、同十八年十月スマトラ島に進駐、同十九年五月ビルマのインパール作戦の援護に転戦、同二十年二月タイ国に移駐、昭和二十年八月十五日中部ナコンナヨクの山中にて終戦を迎え、軍旗を奉燒し、茲に栄光の幕を閉ず。
日本国の防人として ひたすら永遠の平和を目ざして 栄えある軍旗のもと 北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ 自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ 生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地にあるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ獅子奮迅の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐しき面影よ 我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止るをしらず 戦友の赫々たる武勲は燦然として千載に輝く 天命の定めにより生きながらえた我等今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた礎の上にあることに想いを致し衷心より感謝の誠を捧げ憤念の心常にして我等の願いを建碑にこめ後世に遺すものである 願わくは御霊よ此処に鎮まりて倶会一処の妙果を証せんことを
昭和五十五年五月吉日(一九八〇年)
歩兵第六十一聯隊戦友会
歩兵第六十一聯隊戦友会
散る花に かなしき思ひ 吾生きて
殉国の 友の残せし 勲 しを 碑 として 永遠に称えむ
この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので、当時兵士達が訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんし故郷をしのんだのである。終戦後この地に移して永く保存するものである。
限りない挽歌を捧げる
陸軍少年飛行兵
碑文
空
山岡荘八 謹書
つつしみて この碑を 陸軍航空戦士たちの霊に そして すべての 陸軍少年飛行兵の 還らざる 青春に捧ぐ
昭和四拾参年五月
和歌山少飛会
和歌山少飛会
若鷲に捧げる言葉
昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵の制度が誕生した。
至誠、純真、元気、周到の校訓を旨に日夜訓練に励み、操縦通信整備の分科に巢立った若人たちは、祖国の危 急を救うため戦乱に身を投じその多くは蒼天の涯 に消えていった
しかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えていま日本は画期的な飛躍を続けている
けれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできない
なかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶う
ここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる
昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵の制度が誕生した。
至誠、純真、元気、周到の校訓を旨に日夜訓練に励み、操縦通信整備の分科に巢立った若人たちは、祖国の危
しかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えていま日本は画期的な飛躍を続けている
けれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできない
なかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶う
ここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる
陸軍少年飛行兵
和歌山県出身生存者一同
和歌山県出身生存者一同
み魂永久に安らかに
満蒙開拓青少年義勇軍
碑文
顕彰碑 満蒙開拓 青少年義勇軍
和歌山懸知事 小野真次謹書
土の戦士として大陸に渡り第二の故郷建設と北辺鎮護の任務を遂行中 不幸にして若い命を国に捧げた亡き拓友のみ魂永久に安らかに
和歌山県拓友会
昭和三十八年十月十二日建碑
昭和五十四年三月三十日改修
昭和三十八年十月十二日建碑
昭和五十四年三月三十日改修
昭和十二年十一月三十日満洲建國の一翼を担う平和部隊として青少年義勇軍を訓練送出することが國策として決定せられ昭和二十年迄に總数八万六千有余名が送出された
之等十五、六才の青少年達は義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ神明に誓って天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す」を遵奉してひたすら心身をかため卋界青史に燦 として輝く基礎を着々かためつゝあった秋予期しない終戦によって世紀の偉業は屯𫝶し言語に絶した犠牲は永久の礎石として現地に残ったのである
わが和歌山県選出の義勇軍千五百有余も此の聖業に参㓰し自ら刻んだたくましい拓魂は今新しい意氣と力となって生きている 茲に同志相計らい顕彰碑を建てゝ後世に伝えるものである
之等十五、六才の青少年達は義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ神明に誓って天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す」を遵奉してひたすら心身をかため卋界青史に
わが和歌山県選出の義勇軍千五百有余も此の聖業に参㓰し自ら刻んだたくましい拓魂は今新しい意氣と力となって生きている 茲に同志相計らい顕彰碑を建てゝ後世に伝えるものである
昭和三十八年十月十二日
和歌山県選出隊員一同
和歌山県選出隊員一同
その他の碑
天皇・皇后両陛下御親拝記念碑
碑文
昭和三十七年五月二十四日
天皇・皇后両陛下御親拝記念碑
天皇・皇后両陛下御親拝記念碑
和歌山懸知事 小野真次謹書
永久に英霊を慰めてくれる
境内改修三十周年記念碑
碑文
和歌山県護国神社境内改修三十周年記念碑
われわれは戦争の悲惨を 身をもって知る 日本の恒久平和を願い 子々孫々の繁栄を祈る
われわれは戦争の悲惨を 身をもって知る 日本の恒久平和を願い 子々孫々の繁栄を祈る
昭和二十年七月九日夜本市は敵機の大爆撃を受け和歌山城初め全市は一夜にして焼土と化した 敗戦後当神社境内は十余年に亘り荒れるに任せられた
我ゝ傷痍軍人はこの姿を見るに忍びず全員並びに一般の浄財を募り昭和三十一年改修を初め一年半の歳月をかけ境内全域を改修し十年生桜百二十本を植し以来二回に亘り修復を行い神社の姿は一新され今日に至っている
来る春ごと乱れ咲く桜の花は永久に英霊を慰めてくれる事でしょう 改修三十周年を偲びこの碑を建てる
我ゝ傷痍軍人はこの姿を見るに忍びず全員並びに一般の浄財を募り昭和三十一年改修を初め一年半の歳月をかけ境内全域を改修し十年生桜百二十本を植し以来二回に亘り修復を行い神社の姿は一新され今日に至っている
来る春ごと乱れ咲く桜の花は永久に英霊を慰めてくれる事でしょう 改修三十周年を偲びこの碑を建てる
昭和六十一年十一月三日
和歌山市傷痍軍人会
近くの寺社、観光地
和歌山城(徒歩すぐ)
日前神宮・國懸神宮(車で8分)
紀州東照宮(車で14分)
竈山神社・竈山の御陵(車で17分)
伊太祁曽神社(車で25分)
書籍紹介
参考
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