京都霊山護國神社

概要

京都霊山りょうぜん護國ごこく神社には、幕末維新に殉じた志士と大東亜戦争にいたる京都府出身の英霊七万三千十一柱が合祀されています。
境内には京都、山口、高知、福岡、熊本、鳥取の各県の招魂社と岐阜の招魂場があります。
また、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允、平野国臣、宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変、天誅組の義挙などに加わった志士たちの墓三百余墓があります。
さらに、幕末維新の資料を展示する霊山歴史館が隣接しています。

京都霊山護國神社

幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」

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目次

  1. 主な慰霊・顕彰碑
  2. 大東亜戦争に関する碑
  3. 昭和の社
  4. 鎮魂の塔
  5. 第百十六師団衛生隊
  6. 輜重兵第百十六聯隊
  7. 工兵第五十三聯隊
  8. 歩兵第百二十聯隊
  9. 第二十三野戦防疫給水部
  10. 独立歩兵第十一大隊
  11. 歩兵第百九聯隊
  12. 歩兵第百二十八聯隊
  13. 野砲兵第五十三聯隊
  14. 特攻勇士
  15. 騎兵第20聯隊、騎兵第120大隊、捜索第16聯隊、捜索第53聯隊
  16. 野砲兵第百二十二聯隊
  17. 陸軍特別操縦見習士官
  18. 海軍飛行科予備士官
  19. 金鵄勲章
  20. 駆逐艦長波
  21. 満州開拓青年義勇隊
  22. パール博士
  23. 幕末・維新に関する碑
  24. 霊山表忠碑
  25. 木戸孝允神道碑
  26. 坂本竜馬と中岡慎太郎
  27. 松林廉之助
  28. 玉松操、小野昇造、宇喜多一蕙
  29. 淡海槐堂、片岡孫五郎、錣形岩衛門
  30. その他の碑
  31. 殉職自衛隊員
  32. 物故神職
  33. 乃木将軍母堂
  34. 維新の道、霊山歴史館
  35. 近くの寺社、観光地
  36. 書籍紹介
  37. 参考

大東亜戦争に関する碑

昭和の社

昭和の社

碑文

昭和のもり
国のため いのち捧げし ますらおの
いさを忘るな 時うつれども
昭和の年代は、昭和初期の世界政治経済の大混乱に端を発し、昭和6年(1931)9月18日満州事変、昭和12(1937)7月7日支那事変、昭和14年(1939)5月12日ノモンハン事件を経て、昭和16 年(1941)12月8日 米、英両大国に対する大東亜戦争へと突入、昭和20年(1945)8月15日の終戦に至るまで民族存亡の命運を賭けた対戦に進展し、地球の2分の1に当たる広大な戦域に400余万にのぼる将兵は、終始連合軍の圧倒的物量攻勢と対決、屍山血河しざんけつがの激戦を展開した。その間わが本土も度重なる空襲に焦土と化し、本土決戦も辞さずの一億国民の徹底抗戦の構えも原子爆弾の投下、ソ連の参戦と大勢の赴くところ、遂に聖断によりポツダム宣言受託の止むなきに至り、15年に及ぶ大戦の幕は閉じられた。
この戦いは250余万の民族の尊い生命が失われ、想い起すだに惨烈悲痛の極みである。生還したとはいえ敗戦の汚名を甘受し、筆舌に尽し難い数々の屈辱と苦渋を乗り越え英霊となった戦友の分までもと、祖国の復興に取り組んで世界に類のない発展をなしとげた、平和な祖国の現状を見るとき、ともすれば歴史のかなたへと薄れゆく、過ぎし日に思いを馳せ、この年代に生を受け、青春を、学業を、職場を、家庭をと、全てなげうって戦った意義は、アジアの植民地解放の大理想を強く信じた宿命的戦いであった。このことは歴史の証明するところである。この昭和史に残した足跡と、この戦いに参加した事実を、永く後世に伝えんと、生存せる戦友相計り、祖国日本の繁栄と、世界恒久平和の願いをこめて護国の英霊鎮まる京都霊山護國神社の佳域に『昭和の杜』を造園建設し併せて『従軍記念の碑』を建立するものである。
昭和63年10月14日
京都霊山護國神社宮司
木村 幹彦 撰文
大東亜戦争従軍記念之碑
平成九年一月建之
ビルマ派遣軍野砲兵第五十三聯隊 稲田栄三
ビルマ派遣軍工兵第五十三聯隊 今西栄三

鎮魂の塔

鎮魂の塔

碑文

大東亜戦争終戦六十年を迎える本年、昭和十二年支那事変以降、大東亜戦争に出征し、祖国日本の安寧あんねいを願い我身を賭して、今日の平和の礎となられた京都府出身英霊の大偉業を子々孫々に伝えんがため、京都府遺族会婦人部一同力を合わせこの碑を建立す
平成十七年四月二十八日
京都府遺族会婦人部
鎮魂の塔
平成二十三年四月十日建之

第百十六師団衛生隊

第百十六師団衛生隊顕彰碑
次代に伝えん! 第106師団衛生隊

碑文

第百十六師団衛生隊顕彰碑
我が部隊は 昭和十三年五月 京都において編成され直ちに大陸の戰線に派遣されるや 華中 華南の幾多の戰闘に参加し 昭和二十一年七月歸還 その編成を解かれるまで八年有余の間或は一線戰傷病兵の救出収容に或は地域の警備 醫療に盡して克くその責務を完うした
この間二百有余の戰友百余の軍馬 護國の礎石として彼の地に散る いまや時移り 四半世紀にして新生日本の隆昌を見る
ここに生ある者相集いて往時を偲び 部隊の戰績と亡き戰友の慰霊のため この碑を建て 顕彰の記念とし 併せて祖國の榮光と平和を祈る
昭和四十六年四月吉日
第百十六師團衛生隊戰友一同
中国 安慶の石
昭和56年4月採取
安慶友好促進訪中団

次代に伝えん! 第106師団衛生隊

輜重兵第百十六聯隊顕彰碑

輜重兵第百十六聯隊顕彰碑

碑文

嵐第六二二七部隊
輜重しちょう兵第百十六聯隊顕彰碑
碑文
聯隊は 昭和十三年五月京都深草で編成された輸送部隊である 民族や肉親へのひたぶるな愛情に燃えた兵士たちは もの言わぬ軍馬の献身に支えられて 七年間の悲惨な戦いに耐えた 長江の流れ アラカンの山はるか遠い異境の地で 血と泥の戦場に散ったわが友よ 再び帰らぬ愛馬よ きょう生ける者の真心をもって 深く諸英霊の鎮魂を祈り戦友愛の象徴としてこの碑を建て ここに永遠の平和を誓う
昭和四十六年七月
嵐輜会建之

工兵第五十三聯隊

工兵第五十三聯隊顕彰碑

碑文

ビルマ方面派遣安
工兵第五十三聯隊顕彰碑
碑文
昭和十八年十二月京都桃山の屯營に於て動員完結九一四名の精鋭は風雲急なる南方への壮途についた ビルマ到着直ちにインパールミツチナ沿線の作戦に参加其の後北部中部ビルマの各地に勇戦奮闘工兵の本領を発揮して輝しい戦歴を残した 然しながら雨季の泥濘と乾季の灼熱に加え 悪疫瘴癘しょうれいの戦場に於て長期激戦の為六百二十余名の戦友が護国の神と化した 復員二十五年目の今日生存者相集い 往時を偲び異郷ビルマに神鎮まる戦友の霊を慰め武勲を永く伝えるためこの碑を建て 併せて祖國の隆昌と平和を心から祈念する

歩兵第百二十聯隊

鎮魂(歩兵第百二十聯隊)

碑文

鎮魂
歩兵第百二十聯隊は昭和十三年五月福知山に於いて編成
中支戦線に出陣、武漢を攻略の後、安慶周辺の作戦警備に任じ、十七年長駆浙贛せっかんに戦ひ、健脚勇猛の名を挙ぐ。十八年秋武漢より進撃、常徳を攻略。翌十九年長沙より衛陽、宝慶、芷江しこうに転戦曠野こうやを馳せ峻険をぢ、苛烈なる苦闘の末、二十年八月十五日の終戦を迎ふ。此の間遠き異境の荒野に、銃火に斃れ、瘴癘しょうれいに死したる戦友、実に四千余柱の多きを数ふ。
爾来じらい四十年、亡き戦友への追慕の情、切々としてやまず生存者有志に浄財を募り、この聖域に一碑を建立し、祖国の平和と繁栄の礎となられし遺勲を顕彰し、その霊を慰めんとす。在天の英霊安らかに眠らせ給へ。
昭和六十年四月吉辰
嵐歩兵第百二十聯隊生存者有志

第二十三野戦防疫給水部

第二十三野戦防疫給水部

碑文

第二十三野戦防疫給水部
戦歿者慰靈碑
ここニ大東亜戰爭ニ参加シタル第二十三野戰防疫部ノ隊員ニューギニア野上軍医少佐以下一三八名パラオ河原軍医中尉以下二六名ノ戰歿者及ビ内地帰還後死亡サレタ高渕軍医少尉以下二六名ノ英霊ヲ合祀シ永遠ニソノ功績ヲ称ヱマス
元部隊長陸軍々医大佐 従五位 勲三等
西村 盛暢
昭和四十五年六月
第二十三野戰防疫給水部生存者一同建之

独立歩兵第十一大隊

北支沖縄戰歿勇士慰霊碑

碑文

石部隊独立歩兵第十一大隊
北支沖縄戰歿勇士慰霊碑
部隊は昭和十三年二月北支天津に於て編成され山西省昔陽会に駐屯し山西河南河北の各省に亘し大行山系の各作戰また中原会戦に赫々かくかくたる戦果を挙げ太平洋戦爭となるや部隊は昭和十九年沖縄に転戦米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行全員玉砕す
ここに生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心から其の栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立せり
此の碑文の下には沖縄の激戦地の石を持帰り奉祀す
昔陽会
昭和十三年二月十日部隊編成於北支天津
同二十年六月二十日沖縄南部に於て玉砕
昭和四十五年一月
昔陽會 建之
福井哲亮書

関連

沖縄県西原町|西原の塔

歩兵第百九聯隊

歩兵第百九聯隊顕彰之碑 御宸筆 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納之地
歩兵第百九聯隊

碑文

歩兵第百九聯隊顕彰之碑
我が聯隊は昭和十三年五月伏見に於いて編成され 爾来じらい七年有半中支の曠野こうやに転戦し 揚子江沿岸地域に於ける作戦警備 常徳作戦 湘桂しょうけい作戦 芷江しこう作戦等に参加 大東亜戦史に赫々かくかくたる戦歴を記した この間三千有余名の戦友を失う 今ここに生存者相集いて碑を建立し 等しく軍旗の下勇戦奮闘した往時を回顧し 亡き戦友の霊を慰めると共に光輝ある我が聯隊の武勲を永久に顕彰するものである
昭和四十五年五月建之
湘西にて戦友八百余名が戦没せる鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうの地 望郷山 芷江しこうの石
昭和六十三年五月十三日
一〇九会 第六次訪中慰霊団
御宸筆ごしんぴつ 歩兵第百九聯隊軍旗 奉納之地
昭和三十九年四月
第三中隊 神田是空外 生存者一同 建之

参考

歩兵第109連隊

歩兵第百二十八聯隊

歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑

碑文

歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑
第五十三師団歩兵第百二十八聯隊は 昭和十六年十一月京都にて編成され 同十八年十二月大東亜戰ビルマ作戰に出動 英印軍 悪疫瘴癘しょうれいと激闘一年有半 精鋭四、六四一名の内二七二〇名相次ぎ護國の神と化し 残存者も生ける屍のごとき悲劇を以つて終戰に至るここに有志相寄り此の霊域に聯隊顕彰の碑を建立し ビルマの山野に散華さんげせし友の霊を安め且つ我等の思出の資とし 併せて永久の平和を祈願するものである 以つて護國の神よ瞑せよ。
昭和四十四年三月九日建之
元ビルマ派遣軍歩兵第百二十八聯隊有志
ビルマに散華さんげした戦友よ安らかに
ここに生存せる戦友が不滅の遺勲を偲び私たちのビルマ戦記を綴り2953柱の英霊名簿と共に碑に鎮めて永遠にその戦歴を留む
安第53師団歩兵第128联隊
昭和五十五年四月
ビルマ會
機関銃と鉄兜
昭和50年2月24日 ビルマ国戦跡より帰還す
平成19年慰霊巡拝地の石
顕彰碑護持改修趣意書
戦後二十四年目の昭和四十四年三月、ここ京都霊山護国神社の聖地に「歩兵第百二十八聯隊顕彰之碑」を建立し、更に六年後の昭和五十年に戦地ビルマ(現ミャンマー)から苦心惨憺の末持ち帰った機関銃を併設されました。この間の戦友の皆様のご尽力には並々ならぬものがありました。
戦後六十二年目の今日、櫛の歯が抜けるように旅立たれる戦友の皆様。その皆様の顕彰碑への思いと、黙って佇む戦争の証人を護持し、後世に残し伝えていくのは遺族の責務であります。
また、昭和五十年から始まったビルマへの慰霊巡拝行も、今年平成十九年で、二十有余回を数えました。この度の慰霊巡拝各地から持ち帰った石をこの整地にお収め致しました。更にミャンマー(旧ビルマ)の略図を記し、広く一般参詣者の皆様にも伝承するものであります。
平成十九年五月八日
発起人 一二八ビルマ会

野砲兵第五十三聯隊

野砲兵第五十三聯隊

碑文

星光萬年
野砲兵第五十三聯隊は昭和十八年十二月 伏見駐屯地を出發しゅっぱつインパール作戰たけなわなるビルマ戰線に急派され爾後じごの各作戰に参加し赫々かくかくたる戰歴を記したるもその間一千余名の戰友と砲門馬匹ばひつの殆どを喪う 今ここに生存者相集い碑を建立し等しく勇戰敢闘したる往時を回顧し若くして護國の神となれる戰友の冥福を祈ると共に諸靈の遺勲を称え聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり
昭和四十五年十一月二十二日
ビルマ派遣軍第五十三師團
野砲兵第五十三聯隊 戦友一同

特攻勇士

あぁ特攻勇士之碑

碑文

私たちは決してあなたたちを忘れない
あゝ特攻
あぁ特攻勇士之碑
昭和二十年八月十五日の終戦の日から月日は経過してきた
この間、我が国は国民のたゆまぬ努力により、幾多の苦難を乗り越えて世界が驚異の目を向けるまでの復興を成し遂げ、今や世界有数の経済大国として、揺るぎない地位を築き、平和と繁栄を謳歌するまでに至った
しかし、この平和と繁栄は、先の大戦における数百万人もの戦死・戦傷病者をはじめ、数多の国民の犠牲の上に立っていたることを忘れてはならない
とりわけ、大東亜戦争末期において、日に日に厳しくなる戦局の好転を期し愛する家族の待つ祖国の悠久の平和と最後の勝利を信じ、その礎たらんと二十歳前後の若者達が一機一艇で敵艦に体当たりする歴史に例のない必死の特別攻撃の任に就き、遠く南海の空や海に散華さんげした
彼らの崇高なる精神と遺徳は、永く後世に伝えられるべきものである
その勇姿をここに建立し、慰霊の誠を捧げるものである
彼らが身命に代えて守ろうとしたものは何か、この像は今を生きる私たちに問いかけている
平成二十四年四月二十八日
昭和の杜友の会 会長
京都府議会議員
植田 喜裕

関連

特攻隊戦没者慰霊顕彰会

騎兵第20聯隊、騎兵第120大隊、捜索第16聯隊、捜索第53聯隊

騎兵第20聯隊、騎兵第120大隊、捜索第16聯隊、捜索第53聯隊 慰霊

碑文

慰霊
騎兵第20聯隊 騎兵第120大隊
捜索第16聯隊 捜索第53聯隊
れ騎兵第二十聯隊出身各部隊並に師團衞兵騎兵戰没者慰靈の碑なり。抑もそもそも騎兵第二十聯隊は明治三十八年姫路に於いて編成され直に日露戰爭に參加し、以後京都深草に移設、深草桃山長池饗庭野あいばの青野ヶ原各演習場にて訓練を重ね、シベリヤ出兵満州事變を經て昭和十二年に支那事變起るや北支に出撃し、更に徐州南京武漢の作戰攻略に赫々かくかくたる戰果を收めたり。同十三年騎兵第百二十大隊(嵐)は中支に、同十六年太平洋戰爭にあたり捜索第十六聯隊(垣)はフイリッピン方面に進攻し、同十八年捜索第五十三聯隊(安)はビルマ方面へと、各々幾多辛酸を嘗め、縦横兵馬の任を完うし、武勲枚擧にいとまなし。但その間尊き犠牲もまた少なからず、實に九百有餘柱に及ぶ。今生存する我等、相寄り相偲び、永く偉烈を讃へ、靜かに冥福を祈り ここに此碑を建つるものなり。
昭和四十九年十一月 慰靈碑建設有志一同

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野砲兵第百二十二聯隊

野砲兵第百二十二聯隊 顕彰

碑文

顕彰
元野砲兵第百二十二聯隊戰友一同
聯隊は昭和十三年五月京都伏見で編成され直ちに大陸に渡り 池州ちしゅう 安慶 常徳 湘桂しょうけい 宝慶 湘西しょうせい等の作戦に参加し昭和二十一年七月帰還 編成を解かれる迄よく困難を克服し師団砲兵の責務を遂行したこの間武運拙なくして大陸に散華さんげした幾多の友の鎮魂の為戦後三十年ここに生存者相計り護国の礎となられた英霊の勲功と聯隊の違業を後世に留める為一基を建立し 併せて悠久の平和を祈念するものである
願わくば在天の英霊安らかに鎮り給え
昭和五十年三月九日
元野砲兵第百二十二聯隊戦友一同
愛馬の碑
昭和五十九年四月八日
砲声万里利行記念

陸軍特別操縦見習士官

陸軍特別操縦見習士官之碑
特操の碑

碑文

陸軍特別操縦見習士官之碑
内閣総理大臣 佐藤栄作書
特操の碑
第二次世界大戦が転機をむかえた昭和十八年、日本の戦況は急に悪化し、存亡をかけた総力戦となる。この年十月、二千五百余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として祖國の危機に立ち上った
二期、三期、四期と続く、ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした
悪条件の元夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃れ、また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。無名の栄誉は歴史に刻まれたが、愛惜と悲しみは尽きない
平和は血と涙により築かれた、われらは心から祖国を愛し、平和を願う。ここに兄等の栄誉を讃え、その靈を慰むるとともに、特操の果した役割を永く後世に伝えんとするものである
昭和四十六年三月二十一日建之
特操会

特操とは

戦中、満20歳を迎える男性は徴兵検査を受け、兵役に服する義務がありました。その中で、大学や専門学校など高等教育機関に在籍していた学徒は26歳まで徴兵が延期される特権が与えられていました。しかし、昭和18年(1943年)10月、戦争の長期化と戦況の悪化により徴兵猶予が停止され、いわゆる学徒出陣により軍に入営していきました。
陸軍では学徒らを対象にした特別操縦見習士官の制度を設け、劣勢を挽回すべく航空要員の養成を急ぎました。昭和18年10月入校の1期生から4期生まで、およそ8,000名が航空の道に進みました。沖縄戦では陸軍の特攻隊員1,036名が特攻戦死されていますが、そのうち273名が特別操縦見習士官の出身です。

【知覧特攻平和会館】 〜学徒出陣から80年〜学鷲と呼ばれた特別操縦見習士官たちの軌跡、心情を見つめる企画展開催| リビングかごしまWeb

海軍飛行科予備士官

白鷗顕彰之碑

碑文

白鷗はくおう顕彰之碑
学徒出身戦没海軍飛行科予備士官の霊に捧ぐ
大東亜戦争は航空決戦が祖国の存亡を決する戦況となり、旧制大学、高等、専門学校を卒業または在学中の学徒たちは、緊迫した祖国と同胞を護るために敢然と海軍飛行科予備学生、予備生徒を志願し、学窓から大空の決戦場へ赴きました。
短期間の猛訓練に耐え、航空隊指揮官として英知と勇気をもって戦い、2485名が雲ながるる果てに散華さんげされました。そのなかで神風特別攻撃隊士官搭乗員の85%実に658名が学徒出身海軍飛行科予備士官でありました。
学徒たちが戦争の矛盾を感じつつも、一心に祖国の安泰と、家族の平安を信じ「後を頼む」の一言を託し、生死を超越して戦った精神こそ、この国を継ぐ者への指標であります。こうした痛恨の史実を語り継ぐため、戦後日ならずして生存同期生相集い海軍航空隊を象徴したその名も白鷗はくおう遺族会を結成、今日英霊の永遠なる存世を希い『白鷗はくおう顕彰之碑』を建立し、深く哀悼の意を捧げ、世界平和を祈るものであります。
2001年(平成13年)5月27日
白鷗遺族会

金鵄勲章

金鵄勲章之歴史と鎮魂の賦

碑文

金鵄きんし勲章之歴史と鎮魂の賦
金鵄きんし勲章は、明治二十三年明治天皇に依り制定され武功抜群者に授与された国家の最高勲章で、日清、日露戦争より大東亜戦争に至るまでの受章者は九十四万余名にのぼるが、大東亜戦争の受章者はすべて戦死者であり、他の戦役等でも戦没の受章者が大多数を占めている。
特に、靖国神社、護国神社に合祀された英霊(特攻隊戦死者を含む)の大半は金鵄きんし勲章の受章者であり、我々生存者は既に高齢化を迎えて極めて少ない存在となった。
大東亜戦争終結後、新憲法施行により、金鵄きんし勲章に関する制度は廃止されたが、我々の長年の請願により、昭和五十六年の第九十四国会で本人一代に限り公式着用を認められ、宮城参賀、総理観桜会、その他の公式行事に着用し得ることゝなった。
回顧すれば、はるか支那事変に始まり、続いて国運の浮沈を賭けた、あの大東亜戦争に於いて、米英を主とする列国より、死活を分つ強力な経済封鎖の抑圧を受け、坐して死を待つを潔よしとせず、祖国の自衛自存と東亜の開放と安定の為、敢然起って死中に活を求めて列国に挑んだ戦いを「八紘一宇はっこういちうの聖戦」と心から信じて、祖国の防人として南溟北辺なんめいほくへんの戦野に、空に、そして海に於て悪戦死闘の末遂に鬼神も哭く壮烈悲惨なる玉砕の悲運を喫した、殉国の英霊に対し、心から感謝と鎮魂の祈りを捧げ、その抜群の武功を顕彰すると共に、こゝに不戦の誓いをこめて、世界の恒久平和を祈念するものである。
終戦五十一周年記念(紀元二六五六年 平成八年)
日本金鵄連合会京都府金鵄会生存者一同

駆逐艦長波

駆逐艦長波 慰霊碑

碑文

駆逐艦長波くちくかんながなみ 慰霊碑
昭和十九年十一月十一日
レイテ島オルモック湾に於いて戦没
乗組員二百四十七柱
長波戦歴
昭和17年
6月 30日 竣工
8月 キスカ島作戦
9月 ガダルカナル作戦 ガ島砲撃
10月 南太平洋海戦
11月 ソロモン海戦
11月 30日 ルンガ沖夜戦(旗艦)
12月 ガ島ドラム缶輸送作戦
ムンダ基地
昭和18年
4月
5月
アッツ島輸送作戦
7月
8月
キスカ島撤収作戦
10月 ブーゲンビル方面作戦
11月 11日 ラバウル空襲被弾大破航行不能
12月 8日
25日
曳航されラバウル~呉軍港
昭和19年
10月 23日 レイテ沖作戦 栗田艦隊
29日 敵潜水艦捕捉
11月 レイテオルモック輸送作戦
11日 オルモック湾にて戦没(0時45分)
昭和五十六年十一月建之
駆逐艦長波の航跡
長波は一九四二年六月三十日大阪藤永田造船所で竣工同年八月北方キスカ島へ船団護衛九月南方、トラック島へ向う第二水雷戦隊の一艦としてショートランド基地として、ガナルカナル島の陸軍部隊を支援十数回にわたる輸送を遂行同年十月南太平洋海戦、十一月にはルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加、一九四三年再度北方艦隊に編入アツツ島支援及びキスカ島の撤収作戦に従事す。この作戦で船体を損傷し修理のため母港舞鶴に帰港修理後九月に南下ラバウルを基地として、ブゲンビル島沖海戦その他の各海戦に参加、十一月十一日ラバウル港における対空戦斗で被弾し航行不能となり、巡洋艦夕張及び長良の両艦に延々五千海里を曳航され呉軍港に入港修理後、翌年七月連合艦隊と共にシンガポール港に入港、十月ブルネイ港を経由レイテ島沖海戦に参加十一月マニラとレイテ島間の物資輸送護ヱ作戦行動中オルモック湾において米空母艦載桟三百五十余機と交戦激烈な対空戦斗の末ついにオルモック湾に戦没する。
戦没者 二百四十七柱 東経 124度31分
時刻 十二時四十五分 北緯 10度50分

参考

長波【夕雲型駆逐艦 四番艦】

満州開拓青年義勇隊

満州開拓青年義勇隊碑

碑文

満州開拓青年義勇隊碑
昭和四十五年三月建之
京都府満州開拓青年義勇隊連絡協議会
京都府知事 蜷川にながわ虎三 書
満洲開拓青年義勇隊碑の由来
この碑は京都府から送出された二千名の満洲開拓青年義勇隊(内地では満蒙開拓青少年義勇軍と呼ぶ)の事蹟を顕彰し殉難隊員慰霊のため建立するものである。
我が国の生命線と言われた満洲の開拓は日本民族発展の重要國策として推進され その中核となったのがこの義勇隊である
隊員は歳ようやく十四、五才にして家郷を離れ辺境に新らしい村づくりを志し 大陸に鍬を振い銃を執って食料増産を北辺、鎭護に挺身したのである。しかるに昭和二十年八月敗戦によって建設の夢破れ 戦乱の大陸を砲火に追われ飢えと病の死の避難行となり五百名の隊員は夏草の下 凍土の上に斃れて未だ帰らず戦後二十五年を経たのである。
かつて大陸開拓に寝食を共にした同志拓友相はかり各方面の協力を得て 靖國の神となり護國神社に合祀された霊山の聖地を選び拓魂安らかに鎭まり 永遠に祖国の平和と繁栄を守り給えと祈るものである。

パール博士

パール博士顕彰碑

碑文

ラダ・ビノード・パール博士 Dr.Radhabinod Pal 1886~1967
碑文
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、一九四六年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であった
パール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
今やこの判決は世界の国際法学界の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。
パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、ここに、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。
一九九七年十一月二十日
パール博士顕彰碑建立委員会
「極東国際軍事裁判」に於けるインド代表パール判事の勧告文より
時が熱狂と偏見を やわらげた暁には また理性が虚偽から その假面を剥ぎとった暁には その時こそ正義の女神は その秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに そのところを変えることを 要求するであろう
When time shall have softened passion and prejudice, when reason shall have stripped the mask from misrepresentation, then justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places.
Radha binod Pal

建立の経緯

(前略)パール博士は昭和二十七年の来日の際、日本全国を巡回して講演をした。その途中パール博士が何度となく立ち寄った京都は、古代インドを起源とする仏教の東方の聖地として、脈々と息づいていた。萌ゆるような、紅葉に染まる京の秋を堪能して、「できることであれば、老後は京都に住みたい」との真情を吐露していたことが、その後も深く田中氏の心に染み入っていたのであった。
平成七年一月には、パール博士の長男プロサント・パール氏の談話で「父は生前、京都に骨を埋めたい」との思いをしばしば語っていたことが、我が国の新聞で報道された(東京新聞・中日新聞)。
(中略)パール博士の逝去三十年目の一九九七年(平成九年)十一月二十日、京都霊山護国神社「昭和の社」の正面の丘に、「パール博士顕彰碑」が完成したのである。
除幕式には、インド大統領K・Rナラヤナン閣下からも祝辞が寄せられた(後略)

パール判事の日本無罪論(田中正明著) 解説(水間政憲)より

パール判事の日本無罪論(田中正明著)

幕末・維新に関する碑

霊山表忠碑

霊山表忠碑

霊山りょうぜん表忠碑とは

京都霊山護国神社の地には、明治元(1868)年以来、京都府および長州・土佐・福岡・鳥取・熊本・久留米の各藩がそれぞれ招魂社を建て、維新の志士や戊辰戦争戦没者の霊を祀っていた。これらを総称して霊山官祭招魂社と称した。昭和14(1939)年に、東福寺(薩摩藩)・大雲院(佐土原藩)・泉涌寺にあった各官祭招魂社が合祀され、明治以降の戦没者も祭る霊山護国神社になった。この碑は、明治9年に行われた祭祀にあたり、明治天皇からお手元金が下賜されたことを記念し、これらの志士たちの忠義を顕彰するために建立された碑である。

霊山表忠碑

霊山表忠碑 碑文の大意

木戸孝允神道碑

木戸孝允神道碑

木戸孝允きどたかよし神道碑しんどうのひとは

神道碑は国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられた碑で、その人物を顕彰する役割を持つ。明治維新以降、大久保利通・毛利敬親・大原重徳・岩倉具視・広沢真臣・島津久光・三条実美、それに木戸孝允の神道碑が明治天皇の命により建立された。これを俗に勅撰碑ともいう。京都に建てられたのは木戸の神道碑だけである。
木戸孝允は明治10(1877)年に没し、霊山招魂官祭社(現京都霊山護国神社)に葬られた。没後ただちに神道碑建立の命が下り、漢学者川田甕江に碑文執筆が命じられたが、川田の死去など紆余曲折を経て、三島中洲執筆の碑文により建立されたのは大正2(1913)年のことであった。

木戸孝允神道碑

木戸孝允神道碑 碑文の大意

坂本竜馬と中岡慎太郎

坂本竜馬、中岡慎太郎

銅像の碑文

贈正四位坂本龍馬先生 贈正四位中岡慎太郎先生 銅像銘
土佐藩士坂本龍馬先生、中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な事績を遺しながら、惜しくも大政奉還の後僅かに三旬を経た慶応三年十一月十五日、旧幕士の為に京都に斃れた。
坂本先生は、特に海外の情勢に鑑みて海軍操練所の設立につくし自ら海援隊長となり、更に西郷、木戸の間を斡旋して薩長両藩を連合させ、藩主山内容堂を動かして慶応三年十月十四日大政奉還の建白を実現せしめた。
先生がかつて長崎に於いて後藤象二郎に示した八策が、明治天皇によって宣布せられた五ケ条の御誓文の基底をなしたことは、即ち先生の卓抜した経国の理念を知るに足るものである。
中岡先生もまた陸援隊長となり坂本先生と共に薩長土同盟の達成を見るに至らしめた。
両先生は単なる軍国主義者ではなく、始めてわが国議会政治の確立を唱え、外交の重要性を力説して、海運貿易の発達に伴う内外経済の平衡と文明開化を熱望し、以て国勢の興隆に率先推進した大先覚者であった。殊に坂本先生は、その平日愛誦した「天我レニ自由ヲ与ヘヨ 然ラズンバ死ヲ授ケヨ」との自作の詩の一節にある如く、わが国に於ける自由主義の先駆をなし、その影響が、最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である。
しかるに、両先生の建軍の趣意は昭和軍閥にゆがめられ、銅像も戦時中に撤去の厄に遇った。
坂本先生は三十二才、中岡先生は二十九才をもって賊害されたがその不朽の鴻業こうぎょう高遇こうまいなる識見とは永く萬人の軌範と仰ぐべきところであることを確信して、ここに銅像を再建し顕彰の実を挙げんとするものである。

坂本龍馬忠魂碑とは

明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前、明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢に坂本龍馬が現れ、日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと、誉めたたえ、偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助(寺田屋とせ養子)らに手元金を下賜した。寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に石碑を建立し、坂本の忠義を顕彰した。それがこの忠魂碑である。なお伏見区寺田屋の東隣に同時期に作られたと思われるこの碑の複製がある。

坂本龍馬忠魂碑

梅田雲浜の碑

梅田雲浜の碑

梅田雲浜うんぴんとは

ペリー来航後、尊王攘夷派の中心となり、日米通商条約調印反対や、一橋慶喜擁立、大老井伊直弼の排斥などを図った。安政の大獄が始まると捕らえられ、江戸で取り調べ中に病死した。

梅田雲浜|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

松林廉之助

松林廉之助碑

前大邨藩知事從四位 大村純熈すみひろ

松林廉之助れんのすけとは

大村藩勤王派の首領

松林飯山(松林廉之助 ) - 早良風土記| 歴史 郷土史 地域史

玉松操、小野昇造、宇喜多一蕙

玉松操、小野昇造、宇喜多一蕙の碑

奥から、玉松操、小野昇造、宇喜多一蕙の碑

玉松操たままつみさお碑とは

玉松操(1810~72)名は真弘。公家の山本家に生まれ、醍醐寺で僧になったが寺内改革を訴え排斥された。還俗して玉松を姓とした。慶応3(1867)年、岩倉村に蟄居していた岩倉具視に登庸され腹心となり倒幕活動に貢献した。慶応3年12月に出された王政復古の詔勅(王政復古の大号令)を起草し新政権の理念を示し、また官軍の象徴である錦の御旗を考案するなどの業績が知られる。維新後は新政府の理念と相いれず、不遇のうちに病没した。

玉松操碑

玉松操碑 碑文の大意

小野昇造とは

岩倉具視に仕えていた

岩倉具視幽棲旧宅【公式】

宇喜多一蕙うきたいっけいとは

江戸時代後期の復古大和絵派の画家。 姓は宇喜多とも書き、名は公信(きみのぶ)、のちに可為(よしため)と改め、一蕙斎と号す。復古大和絵派の画家・田中訥言に画を学ぶ。安政6(1859)年、安政の大獄に連座し、病を得て没す。

浮田一蕙 : 作者データ&資料一覧 | デジタルアーカイブ | 静岡県立美術館

淡海槐堂、片岡孫五郎、錣形岩衛門

淡海槐堂先生旌褒碑 片岡孫五郎碑 勤皇力士錣形岩衛門之碑

奥から、淡海槐堂、片岡孫五郎、錣形岩衛門の碑

淡海槐堂おうみかいどう先生旌褒せいほう碑とは

淡海槐堂(1822~1879)は幕末明治の勤王活動家。近江国坂田郡中村(現滋賀県長浜市)に生まれ、京都の薬種商武田家の養子になる。安政3(1855)年に公家の醍醐家に仕え、板倉筑前介と称した。醍醐家の家臣として尊王攘夷運動に参加し、志士を裏面から支えることが多かった。文久3(1863)年の大和国天誅組の挙兵で武器を援助したことから翌年幕府に捕らえられたが。慶応3(1867)年に釈放された。  明治元年に大津裁判所(行政府の意)に勤め、この時に醍醐家を辞職し淡海を姓とした。明治5年にすべての公職から隠退し、詩画の制作に余生を送った。没後、十三回忌にあたる明治24年、明治天皇から祭祀料が下賜された。これを機に親戚知人が建立して槐堂を顕彰するのがこの碑である。

淡海槐堂先生旌褒碑

淡海槐堂先生旌褒碑 碑文の大意

片岡孫五郎とは

土佐勤王党で活動

片岡直輝・直温生家

勤皇力士しころ形岩衛門之碑 碑文

勤皇力士しころ形岩衛門之碑
京都市長 富井清 書
京都相撲横綱、錣形岩右衛門は上方相撲頭取として活躍すると共に、禁裏守護補佐力士隊長を拝名し、王政復古の礎石として名実共に輝かしい幾多の功労を尽くした。因りて、此処に顕彰の碑を建立す
昭和四十五年十月吉日
宮西徳治

参考

京都府京都市 霊山護國神社① | 試撃行

伊藤公の詩碑此山上にあり【道標】

伊藤公の詩碑しひ此山上このさんじょうにあり【道標】とは

「伊藤公詩碑」は中井慈眼が建立した伊藤博文詩碑を指す/本来この道標は詩碑への道を案内するものだが現在は本道標のすぐ東でフェンスが張られ詩碑へは行けない/本道標は木戸孝允墓所の北に隣接している/建立者名は記されないが詩碑建立者である中井慈眼(中井三郎兵衛)が同時に建立したものと推定した

伊藤公の詩碑此山上にあり【道標】

その他の碑

殉職自衛隊員

駆逐艦長波 慰霊碑

碑文

慰霊
京都府民、自衛隊員の協力をもってこれを建つ
昭和四十六年六月二十日
隊友会京都府支部連合会
題字 会長 木村篤太郎書

物故神職

物故神職顕彰の碑

碑文

霊山官祭り招魂社 京都霊山護国神社 物故神職顕彰之碑
御創立御沙汰百周年記念
昭和四十三年五月十日建之
財團法人京都養正社理事長
山陽先生五㔺玄孫 頼 新謹書

乃木将軍母堂

軍神乃木将軍母堂慰霊顕彰碑

碑文

軍神乃木将軍母堂 慰霊顕彰碑
西田王堂謹書
昭和四十四年四月建之
日本民主同志會 中央執行委員長 松本明重
明治二十九年十月乃木将軍台湾総督ノ任二赴クニ当リ母堂壽子夫人静子行を共ニス
幾何モナク母堂病ミテ没シ遺言ニヨリ台北三板橋ノ共同墓地に葬ル
けだシ日本人移住者ノ骨ヲ台湾ニ埋ムルモノ之ヲ嚆矢こうしトス
大正元年九月 明治天皇大喪ノ日将軍夫妻共ニ殉死ス後夫妻ノ遺髪ヲ台北ニ送リ母堂ノ墓側ニ葬リ霊位三基弘法寺ニ安置セラル
昭和三十五年中華民国政府ハ北投中和禅寺ニ日本人無縁公墓ヲ築キ乃木家遺骨遺髪及び霊位また禅寺ニ遷サル
将軍ノ総督ノ任ニ在ルヤ 明治天皇ノ聖旨せいしヲ奉ジテ徳化政策ヲ行フ春風秋雨六十年居民ノ猶ホ将軍ノ仁政ヲ懐ヒ常にッテ香華こうげヲ供スルモノ多シ
昭和四十三年三月日本民主同志会ハ明治百年記念事業トシテ日本精神ノ発揚ヲ念願シ日華両国政府ノ允許いんきょヲ得台湾ニ至リ乃木家遺骨遺髪及び霊位ヲ故国ニ奉還シ地ヲ京都霊山護国神社ニトシテ合祀シ上ニ此ノ碑ヲ建テ以テ母堂ノ薫陶ヲ称ヘ将軍ノ遺徳ヲ不朽ニ伝ヘ世道人心ヲ稗益ひえきスル所アラントス
撰 松本明重
書 西田寿山

参考

ご祭神事績│乃木神社

維新の道、霊山歴史館

維新の道
霊山歴史観

維新の道とは

慶応4年(明治元年 1868)5月10日の太政官布告により、一身を国事に捧げた維新の志士等を祀るため、わが国初の官祭招魂社(現・京都霊山護国神社)がここ霊山の地に創建されました。そして明治9年(1876)以降、大政奉還の記念日である10月14日に大祭がおこなわれていましたが、第二次世界大戦後にはそれが途絶え、あたりは荒廃したままになっていました。
明治百年にあたる昭和43年(1968)、有志によって発足した霊山顕彰会(現・財団法人)の手で付近一帯が再整備され、昭和45年(1970)10月14日を期して、この付近が維新変革の原点と現代を結ぶ精神の道として、「維新の道」と称されるに至りました。石碑の字は、霊山顕彰会初代会長の松下幸之助の揮毫きごうによるものです。

霊山歴史館 碑文

霊山歴史館
近代日本を開化せしめた維新の志士の尊い精神を學び この国の歴史と傳統でんとうに立って あすの日本を考えるために 心をこめて若き人びとにおくる
昭和四十五年十月十四日
霊山顕彰会 会長 松下幸之助

近くの寺社、観光地

霊山歴史館(徒歩1分)
霊明神社(徒歩3分)
霊山観音(徒歩7分)
高台寺(徒歩9分)
八坂神社(徒歩16分)
清水寺(徒歩16分)など

書籍紹介

参考

京都霊山護國神社

京都のいしぶみデータベース

Go!Go!キョロちゃん Go!Go!Kyoro Chan 京都霊山護国神社と坂本龍馬・中岡慎太郎などのお墓 祖国日本のために散華した英霊を祀る 京都市

護国神社境内別 慰霊碑等  一覧表・参拝記録

京都霊山護國神社 : 『大日本者神國也』

第116師団衛生隊

坂本龍馬と中岡慎太郎の像|京都ぶらり歩き

京都府京都市 霊山護國神社① | 試撃行

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霊山観音

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