霊山観音

概要

霊山りょうぜん観音は、昭和30年、平和日本の建設と殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を祈念するために、石川博資により建立されました。観音像の原型は山崎朝雲により作成されました。像の高さは24m(80尺)、総重量は約500トンあります。
幕末維新に殉じた志士を祀る京都霊山護国神社の隣にあります。

霊山観音

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目次

  1. 主な慰霊・顕彰碑
  2. 大東亜戦争、第二次世界大戦に関する碑
  3. 世界無名戦士
  4. 飛行第八十一戦隊、飛行第八戦隊第一中隊
  5. 歩兵第六十聯隊
  6. 高射砲第二十二聯隊
  7. 飛行第十九戦隊
  8. 予科練十八期
  9. 陸軍兵器学校
  10. 陸軍中野学校
  11. 韓國人犠牲者
  12. 京都府原爆死没者
  13. ハワイ第百大隊
  14. その他の碑
  15. 開基廟(石川博資の碑)
  16. 全国交通事故物故者
  17. 京料理道先人
  18. ふぐ
  19. 書籍紹介
  20. 参考

大東亜戦争、第二次世界大戦に関する碑

世界無名戦士

世界無名戦士の碑

碑文

IN MEMORIAM THE WORLD'S UNKNOWN SOLDIER KILLED IN WORLD WAR Ⅱ
All honor to him, friend or foe,
Who fought and died for his country!
May the tragedy of his supreme
Sacrifice bring to us, the living,
Enlightenment and inspiration;
Fill us with ever-mounting zeal
For the all-compelling quest of peace,
World peace and universal brotherhood.
Erected by the Ryozen Kannon Kai Kyoto
June 8 1958
第二次世界大戦陣没 世界無名戰士の碑
譽れあれ、味方も敵も、おのが祖國のために倒れた勇士に。
しかし彼に、至高の犠牲をはらわせた戰争は人類の悲劇であった。
生ける吾等はここに心眼を開いて奮起し、いや高まる熱意をもって平和探求に精進しよう。
世界平和 四海兄弟
昭和三十三年六月八日 京都霊山觀音会建立

飛行第八十一戦隊、飛行第八戦隊第一中隊

飛行第八十一戦隊、飛行第八戦隊第一中隊

碑文

慰霊碑
飛行第八十一戦隊
飛行第八戦隊第一中隊
碑文
飛行第八十一戦隊及び飛行第八戦隊第一中隊(昭和十九年合併)は大東亜(太平洋)戦争勃発以来東南アジア全域に亘り転戦、常時高性能を誇る一〇〇式司令部偵察機を駆って重要航空捜索任務を强行完遂し、この偉業によって三回の部隊感状が授与された。後期飛行第十五戦隊をも併合し、次期作戦準備中、終戦を迎えた。
この燦然たる部隊功績の陰では、開戦以来空中勤務者を主とする一〇五柱の戦友を失っている。誠に痛恨の極みであり、今も当時の勇姿を忘れることができない。
我等生存者、ここに慰霊碑を建て、諸霊の安らかに眠らんことを祈る。
昭和六十三年四月吉日
飛行第八十一戦隊 飛行第八戦隊第一中隊
つばさ会 戦友遺族一同

歩兵第六十聯隊

歩兵第六十聯隊

碑文

千歳輝
我が部隊は支那事変に於て中支の諸作戦に大東亜戦争に於てはビルマに轉進しインパール作戦に参加せり
諸靈はこの間勇戰敢闘一死国に殉ぜらる その武勲は燦として千歳に輝く
ここに戦友相図り諸靈の遺勲を顕彰してその冥福を祈る為この地に慰霊の碑を建つ
昭和四十二年四月
元歩兵第六十聯隊 戦友一同
元歩兵第六十联隊(祭七三六八部隊)は昭和十三年に編成され第十五師団(祭部隊)中核部隊として中支蕪湖付近の警備にあたり武漢攻略戦・浙東・浙贛両作戦を始め諸作戦に勇名を轟かせ又大東亞戰爭となるやインド・ビルマ方面に進出しかのインパール作戦に於ける英印軍の總反撃のみならず酷暑惡疫などの戰いをも続け歩兵の本領を発揮し勇猛果敢にその任務を遂行いたしました
この輝かしい戰史の陰には生死を固く誓い合った幾多の戰友が敵彈に斃れ或は病魔に倒れて再び還らぬ尊い無言の勇士となられたのであります 特にインド・ビルマ方面の各戰斗におきましては部隊の九割を失いその大部分の方は京都・滋賀出身の者で異境の地に祖國の爲尊い御柱となられたのであります
この度諸英靈の故郷である京都とくに四季緑美しい東山山麓の靈山観音像膝下に慰靈碑の建立を見るに至ったのであります
主碑は大覚寺門跡草薙全宜大僧正の御揮毫で忠魂は永久に燦として輝という千歳輝の文字これを岡山県産の白みかげ石にて高さ一・五m横ニ・八m重さ三・五屯あり遥かインパール方面に向い上面の凸凹はかのアラカンの山脈をかたちどり前面の小石は海を現わしております
また副碑はインパール作戰当時の聯隊長松村弘氏が草稿されたもので福島県産黒みかげ石を使用高さ六六cm横六六cm重さ〇・六屯あります
昭和四十二年一月インパール地区戰跡慰靈団が派遣され訪れる人なきあのしょうらいの地に安らかに眠れる亡き戰没者の靈を懇に弔い現地の石を聖石として持歸り戰友のみたまと倶に慰靈碑に安置し戰没者の冥福を祈る次第であります
昭和四十二年四月二十九日

高射砲第二十二聯隊

高射砲第二十ニ联隊戰友之碑

碑文

高射砲第二十二联隊戰友之碑
隊暦
中支那派遣軍陸軍高射砲第二十二連隊は 昭和十四年十二月湖北省漢口に於て編成す 砲三ヶ中隊 照空一ヶ中隊及び本部 材料廠にして総員五七一名 歴代隊長吉田權八 斎藤寿恵雄 鳥濱慶助 加藤助一統率の下 軍紀正しく和気藹々わきあいあいたる団結をなす 宜昌作戦をはじめ 長沙 浙贛打通 江北江南殲滅 常徳 湘桂 南部奧漢打通 湘西等多くの作戦に参加 陣中の起居は質実にして現地自活を工夫し 武漢落雀の猛暑に耐えて射撃訓練に励み「褌部隊」の愛称あり 戦闘は神速機敏 一致協力 隨所に幾多の敵機を撃墜し 敵をしてその心胆を寒からしむ
戦死者七十四柱 護国の英霊となる
湖南省長沙に於て終戦となり 翌昭和二十一年七月七日浦賀にて復員完了す 爾来じらい家郷に於て夫々職を営むも 互いに相助け相励まし 戦友の交誼はは愈々いよいよ深まれり 昭和四十六年想い出の実録「高砲二二戦史」を発刊す 
国栄え人心潤う ここに平和の尊厳を絶叫する 平和を希求し英霊の冥福を祈り 霊山観音の一角に碑を建て 戦友一和いっか 久遠くおんの契りを結ぶ
昭和五十年三月吉日 高砲二二戦友会
髙射砲第二十二联隊歌
作詞 吉川聡
  1. 大陸の空制覇して
    見よ堂々乃陣を張る
    武漢の空にいや高く
    総前衛のこの守備を
    髙砲二十二輝く栄誉
  2. 酷寒こっかん霖雨りんう炎熱も
    昼夜わかたぬ防衛乃
    鉄壁乃じんかたくして
    敵機窺う隙もなし
    髙砲二二 中支乃護り
戦友の碑 建立以来 六星霜 今 また一同の浄財により 玉垣を巡らし石板を敷く 併せて献灯献香の具足を調え 以て碑永遠の護持を誓う
昭和五十六年一月二日

飛行第十九戦隊

飛行第十九戦隊
飛行第十九戦隊

碑文

飛行第十九戦隊 慰霊之碑
元総理大臣 佐藤栄作書
昭和四十九年三月二十四日建之
飛行第十九戦隊は昭和十八年十ニ月北伊勢の地にて飛燕戦斗隊として誕生 十九年六月、勇躍比島に前進、船団掩護に任じ、次いで反攻し来る米機動部隊艦載機群と熾烈な空中戦を展開、十月しょう一号作戦下令、レイテの敵艦船を攻撃、多大の戦果と共に多くの戦友また散華さんげす。十一月愛知県小牧で戦力回復、B-29を邀撃ようげき、撃墜、二十年一月再度鵬翼ほうよくを南の空にのばし、ルソン島リンガエン湾の敵艦船を特攻攻撃、三月天号作戦下令、沖縄進攻の米機動艦隊に対し、台湾宜蘭飛行場より、誠特別攻撃隊となり相次いで沖縄の空に散華さんげ、護国の鬼となれり。
北部ルソン島残留の地上勤務者は、運命を陸軍部隊と共にせり。
八月、戦隊は台湾花蓮にて終戦を迎う。戦歿者四百余柱 謹んで戦隊史を記す。
昭和四十九年三月二十四日
飛行第十九戦隊飛燕会
しろがねも こがねもたまも なにせむに
まされるたから 子にしかめやも

予科練十八期

予科練十八期

碑文

十八期の碑
太平洋戦争に於て四百五名の同期生は海軍少年飛行兵として紺碧こんぺきの大空に散華さんげし未曾有の国難に殉じたり
散るべくして散る機を得ざりし吾等は英霊の萬古ばんこに安らかならんことを祈念してここに十八期の碑を建つ
昭和四十年三月二十八日
第18期海軍飛行予科練習生 生存者一同
こんぺきの空は果てしなく碧い
その空の彼方に散りし戦友よ
安らかに眠り給え
昭和十七年五月一日、全国から志願した若者千四百七十五名が土浦海軍航空隊に入隊し、所定の訓練を終えてそれぞれの任地へ飛び立って行ったが、太平洋戦争は多くの少年達の命を惜しみなく奪って行った。
そして戦後四百五名の戦没者の霊を慰めんと生存同期生が此の地で供養を続けて八年目、"十八期は一つ"と念願し、全同期生が一堂に集える場所としてここに十八期の碑を建てるに至った。
この碑の前に立つ時、幾多の苦難を共にした想い出を亡き戦友と語り合い乍らながら、同期の桜を咲かせるであろう。
昭和四十年三月二十八日
予科練一八会

陸軍兵器学校

工華鍾魂之碑

碑文

工華鍾魂しょうこん之碑
明治五年七月開校
諸工伝習所
明治二十三年七月改称
陸軍砲兵工科学舎
明治二十九年四月改称
陸軍砲兵工科学校
大正九年八月改称
陸軍工科学校
昭和十五年七月改称
陸軍兵器学校
昭和二十年八月終戦閉校
平成四年四月五日(大安)旧ひな祭
工華会有志建之
先立ちし 友の面影 偲びつゝ
集いし吾等 禱り捧げん
大野?光
工華鍾魂しょうこん之碑建立の記
我等の母校は 兵器技術教育に関わる陸軍唯一の機関で 遠く明治5年に淵源し校名に変遷はあったが 隆昌の一途を辿った
終戦により七十四年の歴史を閉じたが 彼の学舎で過ごした夢多き多感の青春を懐かしむ想いが募り 工華会の結成となった
かつてのうら若き紅顔の武学生も 今や等しく還暦を越え 会勢は恰もあたかも西山に輝く残照を見る思いである
ここに遺族を含めた同志に浄財を仰ぎ 王城の地東山の霊山観音の聖地に 生死を超えた友情の絆の証「工華鍾魂しょうこん之碑」を建立し 先立ちし諸霊を迎えまつり 我等また現世うつしよを辞するの日驥尾きびに付し その交わりの永劫に絶えないことを希うものである
平成四年四月五日
工華会会長 中原幸 撰文
遺族代表 勝見松江 筆
石碑の由来
碑銘「工華鍾魂ショウコン之碑」ノ御揮毫ハ、全日本仏教会会長比叡山天台座主山田恵諦九十八翁大僧正猊下ノ御染筆デアリマス。
碑上部ノ赤イ玉ハ、円イ玉ニハ霊魂ガアツマルトノ説ニアヤカリマシタ。コレハイシブミニモ通ジルモノデアリ校章ノ輝ク星ト相俟ッテ、和、太陽、日章旗或ハ永遠ノ宇宙ナド広ク床シク象徴サレルモノデアリマス。
右校章ハ大阪ノ杉本保君ノ熱意ニヨル秀作デアリ校名ハ京都ノ丸本勇君筆デアリマス。
陸軍工科学校ニハ火工、鞍工、銃工、鍛工、木工、機工、電工ノ七工ガアリマシタノデ、コレニチナミ芳名碑ヲ七角形トシマシタ。
陸軍兵器学校ハ改編ニヨリ火工、技工、鍛工、機工、電工ノ五工科トナリマシタノデ碑文之碑ヲ五角形トシテコレヲ表現シマシタ。
尚、碑柱ハポルトガルの御影石、赤イ玉ト黒石ハ印度産、床ハ中国ノ白石ヲ以テ構成シマシタ。
皇紀ニ六五ニ年(西暦一九九ニ年)平成四年四月五日建之

陸軍中野学校

陸軍中野学校
陸軍中野学校

碑文

留魂りゅうこん
陸軍中野学校
陸軍中野学校は創設の精神に鑑み大楠公を師表しひょうと仰ぎその至誠殉忠を以て教育の基本とせり けだし誠は情と理の極まる処 古今東西に通ずる大道たり 己を滅却して礎石たるに安んじ 名利を棄て 悠久の大義に生くるの信念は実にここに渕源す 我等中野に学びて特殊の軍務に服し 或は厳しき使命を帯びて世界の各地に勤務し 或は東亞の諸地域に於て大東亜戦争の一端に従う 数多の同志その任にたおれて遂に帰らず 又戦後祖国の再建に力を致し既に不歸ふきの客となる者すくなからず 畏敬追慕の情 歳と共に深し 今 校友相図り維新の史蹟霊山の聖地に一碑を建立して先達英霊を迎え祀ると共に祖国の弥栄いやさかと世界の平和を祈念して此の碑に我等が志の支柱たる誠の精神を留めんとす 更に遺霊許し給わば我等もまた棺をおおうの日兄等の膝下に参じ以て同志骨肉の交りの永劫に絶えざらんことをこいねがう ここに兄等と共に愛唱せし三三壮途さんさんわかれの歌をして慰霊の微衷びちゅうを捧ぐ
昭和五十六年四月十一日
中野校友会会長 櫻一郎撰並書
三三壮途さんさんわかれの歌
  1. 赤き心で 断じてなせば
    骨も砕けよ 肉また散れよ
    君に捧げて ほゝえむ男児
  2. いらぬは手柄 浮雲の如き
    意気に感ぜし 人生こそは
    神よ与えよ 万難我に
  3. 大義を求めて 感激の日々
    仁を求めて あゝ仁得たり
    アジアの求むは この俺たちよ
  4. 丈なす墓も 小鳥のすみか
    砕けし骨を モンスーンにのせて
    散るや世界の すべてが墓だ
  5. 丈夫生くるに 念忠ありて
    闇夜を照らす 巨燈を得れば
    更に要せじ 他念のあるを
  6. 南船北馬 今我は征く
    母と別れて 海こえて行く
    同士よ兄等と いつまた合わん
    同士よ兄等と いつまた合わん
石の由来
同志それぞれの故郷の石を全国より集め留魂聖地の守壁となす
昭和六十一年四月五日
校友会 二誠会 之建

韓國人犠牲者

韓國人犠牲者慰靈塔

碑文

韓國人犠牲者慰靈塔
大東亜戦争中韓國人で我陸海軍に応召従軍したもの二十余万名 そのうち八千八百六十一名が戦死 連合國軍事裁判に附せられて刑死したもの二十三名 その他犠牲者も多数に及んでおる
これらの人々はかつては我らの同胞としてともに我國のために奉仕し身命をささげられたのである 韓國はいまや独立國 我國としてこれらの人の靈を祭ることは許されない しかし心ある日本國民は國民感情がこれを許さないとしてこの英霊を慰めるためにこの塔をつくり 永遠に祈念し祭祀をつづけることになった いわば國民がささげた靖國の塔である
昭和四十三年十一月
赤城宗徳
とつくにの 人なりながら この國の
柱となりて 散りし君はも
中河与一

京都府原爆死没者

京都府原爆死没者

碑文

慰霊
謹んで永遠の平和を祈念し 原爆の犠牲となられし 御霊に捧ぐ
三好杢平 書
建之
社団法人 京都府原爆被災者の会
揮毫 裏千家家元 千宗室謹書
協賛 日本国際連合協会京都本部
平成四年三月建立

ハワイ第百大隊

ハワイ第百大隊

碑文

献燈
CLUB 100 HAWAII
ハワイ第百大隊
october 1974

第100歩兵大隊とは

太平洋戦争開戦前年の1940年、政府は全米で徴兵制度を再導入した。同時にハワイ領防衛軍も正式に米軍の一部となり、3千人余りが徴兵された。パールハーバー攻撃後、米軍が頭を痛めたのが、その半数にあたる日系兵士の扱いだ。軍部はミッドウェー海戦の勝敗いかんで、日本軍がハワイに侵攻する可能性大と見ていた。日本兵が米軍の軍服に身を包んで紛れ込むと見分けがつかない。そこで出した対策が、日系兵士を集めて本土へ送ることだった。
こうして生まれたのが、ハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」だ。

日本人部隊「442連隊」の活躍 - 現地情報誌ライトハウス

日本人部隊「442連隊」の活躍 - 現地情報誌ライトハウス

Nisei Veterans Legacy - To preserve, perpetuate and share the legacy of Americans of Japanese Ancestry who served in the U.S. Armed Forces in World War II.

442部隊と市民とは何かについて - ねずさんのひとりごと

その他の碑

開基廟(石川博資の碑)

開基廟(石川博資の碑)

全国交通事故物故者

全国交通事故物故者

京料理道先人

京料理道先人供養塔

碑文

京料理供養塔
京料理道先人供養塔
古来より培われてきた伝統ある京料理の殿堂とでもいうべき京都には、日々修行を重ねている料理人が多数存在しています。又京の食文化を支えてきた先人達の魂が今を生きる料理人達の仕事や心意気に脈々と受け継がれてきています。
料理の世界においてもいろいろな流派や派閥がありますが、これらを超越して同じ料理道を志す人達の心のよりどころとして、又道を極めて旅立たれた先人達の偉業を称える為に、その関係者が一同に介した供養塔を建立しました。
京の食文化を支えてきた誇りを後世に伝え、ひいては後輩達の志気を高め、今後益々の業界発展の一翼を担えればと願うものです。
西暦二〇〇〇年五月吉日建立

ふぐ

ふぐ塚

碑文

ふぐ塚
建仁寺派管長 竹田益州
ふぐ賛歌
ふぐ塚縁起
ふぐは食いたし 命は惜しし
縄文弥生の遠い昔より 極く美味 摩訶不思議な味とひろく愛されてきたが肝臓などに猛毒があり、てつぽう てつ と呼ばれて恐れられたふぐ 私達は第一回ふぐ供養祭を昭和三十年にどう 五十七年に石塚を建立、以後毎年供養祭を取り行い、本年第五十二回を迎えるに当たり石塚碑を作り尚一層のふぐ食の安心安全を祈願し、より美味しいふぐ料理の研鑽精進します
平成十八年四月
京都府ふぐ組合

花塚

碑文

花塚
音羽山主米?良慶
昭和三十八年四月八日建立
京都花商組合連合會
花塚の由来
花のいのちは短かくて 苦しきことのみ多かりき 林 芙美子作より
万花草木幾仟萬と数えきれない無言の花の精を日々断ち切り我々の生業とは云え、しのびがたく霊山の聖地に花霊をまつり永遠に花の命の安らぎを祈念し、併せて業界故人各霊に対し報恩謝徳をねがい建立しました。 合唱
昭和三十八年四月八日建立
京都府花商協同組合

近くの寺社、観光地

高台寺(徒歩1分)
霊山護国神社(徒歩7分)
八坂神社(徒歩9分)
霊明神社(徒歩10分)
清水寺(徒歩16分)など

書籍紹介

参考

霊山観音

霊山観音 | 桜花の絆

ぶらり重兵衛の歴史探訪2

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京都霊山護國神社

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